Quantcast
Channel: つらつら日暮らし
Viewing all articles
Browse latest Browse all 15851

先に入った信者が得をしない仏教

$
0
0
あくまでも、個人的な感触以上のモノではないのだが、拙僧つらつら鑑みるに、カルト宗教というのは、どこかネズミ講に話が似ていて、最初に始めた人が一番得をして、入信が遅れるにしたがって徐々に損をしていく教え、のような気がしている。要するに、教祖や一部の大幹部は良いのかもしれないが、末端は大変だという話である。

その反面、仏教、就中禅宗の教えというのは、この逆のような気がしている。無論、条件付きではあるが。条件というのは、所謂、指導者に必ず就かねばならない、という意味に於いて、もちろん年功序列はあるし、先に入っている人が、構造上、後に入った人よりも地位的に高いということはあると思う。その辺は、儒教の影響ではなくて、元々ブッダが、正しく教えを学んでいく際に必要とした序列である。

しかし、これも絶対ではない。いみじくも道元禅師が「いまは、しばらく賓主なりといえども、のちには、ながく仏祖なるべし」(『重雲堂式』)と仰っているように、序列を維持するのが目的ではなく、それはあくまでも仏祖となるための、一時的な方便であって、しかも、仏教というのは、「一座建立」に要する垣根が低い宗教のような気がする。

要するに、正しく教えを理解し、納得しさえすれば既に一座建立が可能なわけで、しかも、後には膨大な教義として確立されてしまうという歴史的事実はあるが、複雑巨大な教義であっても、その目指すところは意外と単純な教えである場合が多い。つまりは、我が身心を蝕む「貪瞋痴」の三毒をどうするか?という話である。

或る意味、そのための効率良い方法が模索されれば、すぐに一座建立である。

だから、先駆者がどれほどに労力を掛けて、巨大な教義や行(難行)を作ったとしても、後の人が簡単な教義や行(易行)を作ってしまったら、あっさりとそちらに人々は靡いてしまう。これが、先に入った人が必ずしも得をしないという一例である。

また、先駆者というのは、概して保守的になりやすい。それは、従来自分が積み上げてきた業績や、組織、建物を維持しようとしてしまうものだということだ。しかし、これは反面、堕落の一途を辿ることがある。つまり、活力を失って、世間の様々な苦悩に対応しなくなっていくということだ。しかも、保守的であるから、後に入ってきた者に対する批判が厳しいことも問題である。

ただ、仏教というのは、例えば、インドでブッダになられた釈迦牟尼仏がそうであったように、必ず先達の師に就かなければならない教えである。この段階で、「一座建立」も、何も無いところからいきなり作るわけではないといえる。いきなり作られた教えは、それ自体伝統化できずに、必ず排除される傾向にある。よって、「一座建立」は、必ず「分派」の形を取らねばならない。

分派を限り無く繰り返した極限が、自分1人の仏教、お一人様仏教、それこそ『マイ仏教』(みうらじゅん)なのかもしれないが、ここまで行くと、やはり「修行的側面」や「儀礼的側面」が脱けていくように思われる。仏陀釈尊がそうであったように、仏教に修行や儀礼は欠かせない。「儀礼」については、疑問視する見解もあるかもしれないが、いわゆるブッダに対する頭面礼足的な礼拝や、右遶三匝といった儀礼まで欠かすことは出来ない。この辺、「お一人様」では実現が難しいといえる。おそらく、1人で行うと虚しくなる。

よって、拙僧的には、極限としての「お一人様仏教」の可能性を否定はしないけれども、そこまで行くと、本当に仏教ではなくなってしまう可能性を指摘したい。最低限、「師―資(師匠と弟子)」の関係は保持されねばならないし、共に志を同じくする仲間も必要だといえよう。それらを持たずに、今自分では仏教を学んでいると思っている人は、早くその考えを改めた方が良い。

こう述べると、「師匠と弟子」があることから、やはり「先に入った者が得をする教えか?」と思う人もいるかもしれないが、ここで拙僧の考えは全く違っている。先にも述べたように、「師」というのは、「弟子」が正しく法を得ることだけを目的に存在しているのだ。だから、そのために必要な方便で、権威化する場合などがあっても、最終的にはともに仏祖となるのだから、プロセスだけで目くじらを立ててはいけない。

そして、いくら「一座建立」出来たとしても、師に対して感謝も出来ないような者に仏教を説く資格は無い。つまり、「先に入った人が構造的に得をする」わけではないにせよ、しかし、恩や感謝まで無くなるわけではないから、先に一座建立した人は、それなりに弟子達に支えてもらえる権利を持つ。ただ、それが一方的な収奪にはならないというところである。このバランスは、日本に於ける様々な「家元制」を持つ分野の芸術に近いのかもしれない。いや、その者達が我々の真似をしたのだろう。歴史には、そう見るのが自然だ。

先駆者が一方的に得をする教えは、どこか歪んでいる。むしろ、後発の者が得をするくらいでちょうど良い。ただ、仏教の場合は、師と弟子という有機的関係はどこまでも続く。その意味で、得をするといっても、対立的に一方が一方から収奪するのではなく、お互い伸びていける豊かな関係が理想だといいたいのである。拙僧にとって、或る偉大な先輩が、こんなことを述べていた。「今、たまたま大学の教壇に立ち、後進を導く立場になったが、その最終的な目的は、素晴らしい人を輩出して、その人に私自身導いて貰うことだ」というものである。この謙虚さ、そして、師を求める貪欲さ、これが必要だと思うのである。弟子を求める貪欲さだけが、全く要らない。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。

これまでの読み切りモノ〈仏教10〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 15851

Latest Images

Trending Articles



Latest Images