天台宗の恵心僧都源信が著した『往生要集』を読んでいたら、次のような一節を見た。
もし略を存ぜば、馬鳴菩薩の、頼吒和羅の伎声に唱へていふがごとし。
「有為の諸法は、幻のごとく化のごとし。
三界の獄縛は、一としても楽しむべきことなし。
王位高顕にして、勢力自在なれども、
無常すでに至りぬれば、たれか存ずることを得るものあらん。
空中の雲の、須臾に散滅するがごとし。
この身は虚偽なること、なほ芭蕉のごとし。
怨たり賊たり、親近すべからず。
毒蛇の篋のごとし。たれかまさに愛楽すべき。
このゆゑに諸仏、つねにこの身を呵したまふ」と。
巻上・厭離穢土
そこで、気になったのがこの馬鳴菩薩の「頼吒和羅(らいたわら、記事のタイトルは、表示されないので別字)」である。で、それがこの上の「」部分に相当する内容だそうだが、『浄土真宗聖典』の註記に依れば、これは人の名前で、梵語でラーシュトラパーラ(Rastrapala:不正確表記です)という人らしく、古代の中インドのクル国にいた長者の子とされている。『四分律』にその名前が見え、少欲知足で、物に頓着することが無く、仏陀は弟子に、この者のように貪欲を離れるように説いたという。色々と調べてみると、現在の『大正蔵』巻1・阿含部に、『仏説頼吒和羅経』というのがあって、それにはこの頼吒和羅がどういう因縁で出家し、法を得て、どう衆生を導いたかまでが書かれている。
最初、この人は出家を許されなかったらしい。それは、両親に許可を得ていなかったためである。話に依れば、仏陀は当初、両親の許可についてはそれ程重大なこととは考えていなかったようだが、自分の親族が大勢出家したとき、仏陀の実父である浄飯王は、余りに寂しいのでこれからは親の許可を得てから出家させるようにお願いし、仏陀はそれを容れたという。で、頼吒和羅もその指示に従い、親に許可を得ようとしたのだが、中々許可が出ない。結果、ハンガーストライキを行ったところ、親戚筋が親に、ここまま餓死するより出家させた方が良いだろうといって認めてもらったのである。
出家した後、頼吒和羅は、元々貪欲が少なかったこともあり、仏陀に随った10年の間に、阿羅漢果まで得た優れた弟子であった。なお、出家の時に親には、必ず会いに来ると約束しており、修行10年の後で親に会いに行った。そこで両親を接化し、涅槃の道に入ることを説いたが、聞き入れられなかった印象である。親に話すことだけ話すと、頼吒和羅はその下を去ってしまったからである。去った後で、頼吒和羅が育った国の王に逢った。王は、非常に貪欲の強い人であったが、頼吒和羅の接化によって心を和らげ、最終的には仏教に帰依している。
このように、貪欲の無い人というイメージが強い人であったようだ。馬鳴菩薩はその辺を詩頌に詠まれたわけである。上記にある如く、この頌は『付法蔵因縁伝』巻5に見えるものであるが、天台宗系では知られていたもののようである。何故ならば、『付法蔵因縁伝』を元に、天台智?は『摩訶止観』にて、次のように説いているからである。
鳴は頼吒和羅妓を造る。妓の音は無常・苦・空を演べ、聞く者は道を悟る。
『摩訶止観』巻一上
このようにあるためである。馬鳴菩薩が、頼吒和羅を想って造った妓(この字では、女性芸人を指すことになる。どうも、原文ではこのようだが、意味的には[伎:わざ、芸術的な技]の方が良さそうである)の音は、無常、そして苦、そして空を述べているため、まさに仏説に於ける法印を略述した内容といえる。法印とは、肝心要のところというくらいの意味だから、この3つを理解することは学道上不可欠である。馬鳴尊者といえば、『仏所行讃』を編んだことでも知られる、優れた仏教詩人であったが、こういうところでも名を残しているのだと認識した次第である。
なお、話が前後したが、恵心僧都がこの偈を引いた理由は、まさに無常であり空であるこの世界に対し、厭離心を起こさせるためである。他にも、『宝積経』『仁王経(題名のみ)』『大般涅槃経』などから無常に関する偈を引き、その上で、「祇園寺の無常堂の四の隅に、頗梨の鐘あり。鐘の音の中にまたこの偈(=『涅槃経』「無常偈」)を説く」という有名な一節も見える。この一節から「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」(『平家物語』)にも繋がるという。
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もし略を存ぜば、馬鳴菩薩の、頼吒和羅の伎声に唱へていふがごとし。
「有為の諸法は、幻のごとく化のごとし。
三界の獄縛は、一としても楽しむべきことなし。
王位高顕にして、勢力自在なれども、
無常すでに至りぬれば、たれか存ずることを得るものあらん。
空中の雲の、須臾に散滅するがごとし。
この身は虚偽なること、なほ芭蕉のごとし。
怨たり賊たり、親近すべからず。
毒蛇の篋のごとし。たれかまさに愛楽すべき。
このゆゑに諸仏、つねにこの身を呵したまふ」と。
巻上・厭離穢土
そこで、気になったのがこの馬鳴菩薩の「頼吒和羅(らいたわら、記事のタイトルは、表示されないので別字)」である。で、それがこの上の「」部分に相当する内容だそうだが、『浄土真宗聖典』の註記に依れば、これは人の名前で、梵語でラーシュトラパーラ(Rastrapala:不正確表記です)という人らしく、古代の中インドのクル国にいた長者の子とされている。『四分律』にその名前が見え、少欲知足で、物に頓着することが無く、仏陀は弟子に、この者のように貪欲を離れるように説いたという。色々と調べてみると、現在の『大正蔵』巻1・阿含部に、『仏説頼吒和羅経』というのがあって、それにはこの頼吒和羅がどういう因縁で出家し、法を得て、どう衆生を導いたかまでが書かれている。
最初、この人は出家を許されなかったらしい。それは、両親に許可を得ていなかったためである。話に依れば、仏陀は当初、両親の許可についてはそれ程重大なこととは考えていなかったようだが、自分の親族が大勢出家したとき、仏陀の実父である浄飯王は、余りに寂しいのでこれからは親の許可を得てから出家させるようにお願いし、仏陀はそれを容れたという。で、頼吒和羅もその指示に従い、親に許可を得ようとしたのだが、中々許可が出ない。結果、ハンガーストライキを行ったところ、親戚筋が親に、ここまま餓死するより出家させた方が良いだろうといって認めてもらったのである。
出家した後、頼吒和羅は、元々貪欲が少なかったこともあり、仏陀に随った10年の間に、阿羅漢果まで得た優れた弟子であった。なお、出家の時に親には、必ず会いに来ると約束しており、修行10年の後で親に会いに行った。そこで両親を接化し、涅槃の道に入ることを説いたが、聞き入れられなかった印象である。親に話すことだけ話すと、頼吒和羅はその下を去ってしまったからである。去った後で、頼吒和羅が育った国の王に逢った。王は、非常に貪欲の強い人であったが、頼吒和羅の接化によって心を和らげ、最終的には仏教に帰依している。
このように、貪欲の無い人というイメージが強い人であったようだ。馬鳴菩薩はその辺を詩頌に詠まれたわけである。上記にある如く、この頌は『付法蔵因縁伝』巻5に見えるものであるが、天台宗系では知られていたもののようである。何故ならば、『付法蔵因縁伝』を元に、天台智?は『摩訶止観』にて、次のように説いているからである。
鳴は頼吒和羅妓を造る。妓の音は無常・苦・空を演べ、聞く者は道を悟る。
『摩訶止観』巻一上
このようにあるためである。馬鳴菩薩が、頼吒和羅を想って造った妓(この字では、女性芸人を指すことになる。どうも、原文ではこのようだが、意味的には[伎:わざ、芸術的な技]の方が良さそうである)の音は、無常、そして苦、そして空を述べているため、まさに仏説に於ける法印を略述した内容といえる。法印とは、肝心要のところというくらいの意味だから、この3つを理解することは学道上不可欠である。馬鳴尊者といえば、『仏所行讃』を編んだことでも知られる、優れた仏教詩人であったが、こういうところでも名を残しているのだと認識した次第である。
なお、話が前後したが、恵心僧都がこの偈を引いた理由は、まさに無常であり空であるこの世界に対し、厭離心を起こさせるためである。他にも、『宝積経』『仁王経(題名のみ)』『大般涅槃経』などから無常に関する偈を引き、その上で、「祇園寺の無常堂の四の隅に、頗梨の鐘あり。鐘の音の中にまたこの偈(=『涅槃経』「無常偈」)を説く」という有名な一節も見える。この一節から「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」(『平家物語』)にも繋がるという。
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