面山瑞方師の『見聞宝永記』の貴重なところは、他の語録や思想書的内容の文献と違って、当時の修行道場の「生の様子」が描かれていることでしょうか。つまり、当時の風習や、実際の日常生活が伝わってくる文脈が多いのです。今日、紹介していく内容も、そんな1つです。
お師匠さまは、典座和尚に銘じて、人工を雇って井戸を掘らせた。
典座がいうには、「予め、盲僧をお呼びして、地神を祀って、土地をいただけるようにお願いしましょう」と。
お師匠さまがいうには、「どうして盲僧を呼ぶ必要がある。私が自ら、土地を乞おう」と。そして、杖を持つと、すぐにその場所に到って、杖をもって地面に一円相を描き、高声にていうには、「堅牢なる地の神よ、吾にこの一片の土地を与えよ。吾は井戸を掘って、三宝に供養しようと思うのだ」と。そして、杖でもってその地面を一回撞いて「クヮ」と喝し、「ここを掘るのだ」というと、方丈に帰られた。
典座がそこを掘らせると、甘露の泉が湧き出でて、久しい干ばつに遭っても、水量が減ることは無かった。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
まず始めに。この記事は、身体障害者への差別を助長する目的に書かれたものではなく、江戸時代の実際の様子を伝えるために書かれたものであることを、お断りしておきます。
さて、盲僧というのは、見ての通り、盲目で僧体をした宗教者で、視覚を失っている代わりに、超越的な存在と交流することが出来ると信じられていたのです。この場合、井戸を掘ることになっていますので、地面の一部を地の神から譲られて、人の自由に使う必要があるため、地の神と交流するために盲僧を呼ぼうとしたわけです。ところが、面山師の本師である損翁宗益禅師は盲僧を呼ぶ必要は無い、自分で何とかするといい、必要な儀式を執り行っています。
儀式の詳細は上記訳文をご覧頂くとして、そもそも何故、損翁禅師が自分でこのような儀式が可能だと思ったのか?ということです。それは、すぐには結論は出ませんが、禅僧が中世からずっと、様々な神を祀ってきたことと関わりがあるのかもしれません。例えば、以下のような文章はどうでしょうか。
上、梵釈四王・竜天八部中より、日本国中の大小神祇、当境の諸神、合堂の真宰、本寺の檀那、諸堂の檀越、捨田の諸檀、結縁の道俗、合山の清衆。本命元辰。当年属星。下、堅牢地神に至る。
『瑩山清規』「修正会」
このように、年初の祈祷でいわゆる梵天だの帝釈天から、日本国中の神祇、そして、堅牢地神に至るまで全ての神々に対し、祈りを捧げています。よって、或る意味損翁禅師にしてみれば、地神に許可を得ることは造作も無かったようです。それに、井戸を掘る目的はこの上ないものです。三宝への供養だと仰っていることを勘案すれば、むしろ地神は喜んで土地を差し出したことでしょう。
三宝への帰依と供養とは、それほどに価値があるのです。
おほよそ帰依三宝の功徳、はかりはかるべきにあらず、無量無辺なり。
『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻
帰依三宝の功徳は、無量無辺なのです。この功徳発動の現場に参入するからこそ、地神もまた地神なのです。
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典座がいうには、「予め、盲僧をお呼びして、地神を祀って、土地をいただけるようにお願いしましょう」と。
お師匠さまがいうには、「どうして盲僧を呼ぶ必要がある。私が自ら、土地を乞おう」と。そして、杖を持つと、すぐにその場所に到って、杖をもって地面に一円相を描き、高声にていうには、「堅牢なる地の神よ、吾にこの一片の土地を与えよ。吾は井戸を掘って、三宝に供養しようと思うのだ」と。そして、杖でもってその地面を一回撞いて「クヮ」と喝し、「ここを掘るのだ」というと、方丈に帰られた。
典座がそこを掘らせると、甘露の泉が湧き出でて、久しい干ばつに遭っても、水量が減ることは無かった。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
まず始めに。この記事は、身体障害者への差別を助長する目的に書かれたものではなく、江戸時代の実際の様子を伝えるために書かれたものであることを、お断りしておきます。
さて、盲僧というのは、見ての通り、盲目で僧体をした宗教者で、視覚を失っている代わりに、超越的な存在と交流することが出来ると信じられていたのです。この場合、井戸を掘ることになっていますので、地面の一部を地の神から譲られて、人の自由に使う必要があるため、地の神と交流するために盲僧を呼ぼうとしたわけです。ところが、面山師の本師である損翁宗益禅師は盲僧を呼ぶ必要は無い、自分で何とかするといい、必要な儀式を執り行っています。
儀式の詳細は上記訳文をご覧頂くとして、そもそも何故、損翁禅師が自分でこのような儀式が可能だと思ったのか?ということです。それは、すぐには結論は出ませんが、禅僧が中世からずっと、様々な神を祀ってきたことと関わりがあるのかもしれません。例えば、以下のような文章はどうでしょうか。
上、梵釈四王・竜天八部中より、日本国中の大小神祇、当境の諸神、合堂の真宰、本寺の檀那、諸堂の檀越、捨田の諸檀、結縁の道俗、合山の清衆。本命元辰。当年属星。下、堅牢地神に至る。
『瑩山清規』「修正会」
このように、年初の祈祷でいわゆる梵天だの帝釈天から、日本国中の神祇、そして、堅牢地神に至るまで全ての神々に対し、祈りを捧げています。よって、或る意味損翁禅師にしてみれば、地神に許可を得ることは造作も無かったようです。それに、井戸を掘る目的はこの上ないものです。三宝への供養だと仰っていることを勘案すれば、むしろ地神は喜んで土地を差し出したことでしょう。
三宝への帰依と供養とは、それほどに価値があるのです。
おほよそ帰依三宝の功徳、はかりはかるべきにあらず、無量無辺なり。
『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻
帰依三宝の功徳は、無量無辺なのです。この功徳発動の現場に参入するからこそ、地神もまた地神なのです。
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