道元禅師が、寛元元年(1243)11月13日に吉峰寺で示衆されたという『正法眼蔵』「十方」巻というのは、この世界のみならず、あらゆる世界におわします仏陀(釈迦仏以外を含む)を讃歎するために説かれた巻になります。良く、道元禅師は釈尊一仏だけを信じていたという指摘や、それに基づいて、現在の曹洞宗でも「一仏両祖」などといって、釈尊を尊崇していますが、しかし、諸大乗経典の多くも思想的なポンプに使っていた道元禅師が、そんなことを安易に断定するはずもなく、したがって、以下のような教えを我々は拝受しなくてはならないのです。
この十方は、一方にいり、一仏にいる。このゆえに、現十方せり。十方・一方、是方・自方・今方なるがゆえに、眼睛方なり、拳頭方なり、露柱方なり、燈籠方なり。かくのごとくの十方仏土の十方仏、いまだ大小あらず、浄穢あらず。このゆえに、十方の唯仏与仏、あひ称揚讃歎するなり。さらにあひ誹謗してその長短・好悪をとくを、転法輪とし説法とせず。諸仏および仏子として、助発問訊するなり。
仏祖の法を稟受するには、かくのごとく参学するなり。外道・魔儻のごとく是非毀辱することあらざるなり。いま真丹国につたはれる仏経を披閲して、一化の始終を覰見するに、釈迦牟尼仏、いまだかつて、他方の諸仏それ劣なり、ととかず、他方の諸仏それ勝なり、ととかず、また、他方の諸仏にあらず、ととかず。おほよそ一代の説教にすべてみえざるところは、諸仏のあひ是非する仏語なり。他方の諸仏また、釈迦牟尼仏を是非したてまつる仏語つたはれず。
『正法眼蔵』「十方」巻
以前、【学道を行うには人情を捨てよ】という記事で示したことですが、道元禅師は物事に対して、善悪を鋭く対立させるような発想を拒否していました。それは何故か、といえば十方とは、特定の中心を定めてその周囲を十方としているのではなくて、「中心が無い」ことを十方としているからです。ですから、十方とは、ただ「尽十方世界といふは、十方面ともに尽界なり。東西南北四維上下を十方といふ」(「身心学道」巻)ということなのです。尽界というのは、無限の世界ということです。そのような無限の世界に、方向などを定めて、どれほどの意味があるでしょうか。
よって、道元禅師は尽界そのものである一仏を讃歎し、更にそれは一方でもあるというわけです。しかしながら、この一方に、同時に十方が現成してもいるのです。これは、視界の自在な変更によって可能になります。縮尺の変更とでもいうべきでしょうか。例えば、日頃4?の道を徒歩で通勤・通学しているとしましょう。その間には、1時間かかってしまったりしますが、縮尺の大きな地図であれば、わずか数?に見えることになります。この経験を援用すれば、今の我々自身の苦しみだって、所詮はちっぽけなものだということになるといえましょう。
ただ、あまりに安易な感じもするんですよね。それに、今ここで苦しんでいる自分とは、そのような視点を取れないから苦しんでいるんだ、ということもいわれます。ただ、使い出のある発想だというので、覚えていても良さそうです。そして、おそらくそれほどの大きな物の見方をしたであろう釈尊は、十方仏を誹ったり、その長短や好悪を説くことがなかったとしているのです。大きな物の見方をすれば、分別などは、発想としてあまりに低次元であります。
ですから、十方の仏には、優劣はないのです。そもそも、本当に十方ということを自覚したら、そこには相手を批判する批判軸すらないことになります。むしろ、批判する者だけを批判していれば、用足りてしまうのです。釈尊以外の仏陀を批判することも、逆に他の仏陀の基準で釈尊を批判することも、ともに不可能だと知るべきなのであります。現在の日本には、阿弥陀仏とか、盧遮那仏といった、釈尊以外の如来を信奉する宗派がありますが、それらの宗派に対しては、この道元禅師の論理を用いて、あっさりを友好関係に至ることが出来そうです・・・
この記事を評価して下さった方は、
を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈曹洞宗8〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
この十方は、一方にいり、一仏にいる。このゆえに、現十方せり。十方・一方、是方・自方・今方なるがゆえに、眼睛方なり、拳頭方なり、露柱方なり、燈籠方なり。かくのごとくの十方仏土の十方仏、いまだ大小あらず、浄穢あらず。このゆえに、十方の唯仏与仏、あひ称揚讃歎するなり。さらにあひ誹謗してその長短・好悪をとくを、転法輪とし説法とせず。諸仏および仏子として、助発問訊するなり。
仏祖の法を稟受するには、かくのごとく参学するなり。外道・魔儻のごとく是非毀辱することあらざるなり。いま真丹国につたはれる仏経を披閲して、一化の始終を覰見するに、釈迦牟尼仏、いまだかつて、他方の諸仏それ劣なり、ととかず、他方の諸仏それ勝なり、ととかず、また、他方の諸仏にあらず、ととかず。おほよそ一代の説教にすべてみえざるところは、諸仏のあひ是非する仏語なり。他方の諸仏また、釈迦牟尼仏を是非したてまつる仏語つたはれず。
『正法眼蔵』「十方」巻
以前、【学道を行うには人情を捨てよ】という記事で示したことですが、道元禅師は物事に対して、善悪を鋭く対立させるような発想を拒否していました。それは何故か、といえば十方とは、特定の中心を定めてその周囲を十方としているのではなくて、「中心が無い」ことを十方としているからです。ですから、十方とは、ただ「尽十方世界といふは、十方面ともに尽界なり。東西南北四維上下を十方といふ」(「身心学道」巻)ということなのです。尽界というのは、無限の世界ということです。そのような無限の世界に、方向などを定めて、どれほどの意味があるでしょうか。
よって、道元禅師は尽界そのものである一仏を讃歎し、更にそれは一方でもあるというわけです。しかしながら、この一方に、同時に十方が現成してもいるのです。これは、視界の自在な変更によって可能になります。縮尺の変更とでもいうべきでしょうか。例えば、日頃4?の道を徒歩で通勤・通学しているとしましょう。その間には、1時間かかってしまったりしますが、縮尺の大きな地図であれば、わずか数?に見えることになります。この経験を援用すれば、今の我々自身の苦しみだって、所詮はちっぽけなものだということになるといえましょう。
ただ、あまりに安易な感じもするんですよね。それに、今ここで苦しんでいる自分とは、そのような視点を取れないから苦しんでいるんだ、ということもいわれます。ただ、使い出のある発想だというので、覚えていても良さそうです。そして、おそらくそれほどの大きな物の見方をしたであろう釈尊は、十方仏を誹ったり、その長短や好悪を説くことがなかったとしているのです。大きな物の見方をすれば、分別などは、発想としてあまりに低次元であります。
ですから、十方の仏には、優劣はないのです。そもそも、本当に十方ということを自覚したら、そこには相手を批判する批判軸すらないことになります。むしろ、批判する者だけを批判していれば、用足りてしまうのです。釈尊以外の仏陀を批判することも、逆に他の仏陀の基準で釈尊を批判することも、ともに不可能だと知るべきなのであります。現在の日本には、阿弥陀仏とか、盧遮那仏といった、釈尊以外の如来を信奉する宗派がありますが、それらの宗派に対しては、この道元禅師の論理を用いて、あっさりを友好関係に至ることが出来そうです・・・
この記事を評価して下さった方は、

これまでの読み切りモノ〈曹洞宗8〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。