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Channel: つらつら日暮らし
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今日は「端午の節句」です(平成25年度版)

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端午と言えば、古来から禅宗でも重要な日(もちろん、「こどもの日」としてではありませんが)でありまして、道元禅師も瑩山禅師も端午に見合う行持を行っております。この日に行持を行う理由は、中国の風習に由来します。

五月の端(はじめ)の五日、つまり五月夏至の端(はじまり)の意味を持ち、端午の称は午月午日午時の三午が端正に揃うからとも言われます。このように五月五日を端午と明らかに称するようになるのは唐代以後のことです。また、宋代以後には天中節とも言われるようになります。これは、五月五日の五時が天の中央にあたることと、この日の月日時の全てが数字の“一三五七九”の天数(奇数)の中央である“五”にあたることから、天中節と称します。なお、「天中殺」とは全く違うのでご注意下さい。

さて、端午には廳香・沈香・丁子などを錦の袋に入れ、蓬・菖蒲などを結び、五色の糸を垂らさせた「薬縷(薬玉)」を作り、柱にかけたり身に付けたりして邪気を払って長命息災を祈りました。また、薬狩と称して薬草を集めることも行われました。道元禅師の上堂では4回ほど端午(天中節)に因んだものがあります。それは、永平寺(大仏寺)に移られてからのものですが、既に拙ブログでは採り上げ終わりました。

そこで、何を主題にしようか案じていたところ、『洞谷記』に収録される『瑩山瑾禅師語録』に、端午の上堂が収録されていることに気付いたので、今年はそれを採り上げてみます。

 端午の上堂、五月五日天中節、百草頭上に生殺新たなり。
 甘草も甜きことを知らず、黄連も苦きことを弁ぜず、只だ箇の不萌の草、本より甘・酢・苦・辛・鹹・淡を離る、曽て地・水・火・風・空・識に非ず。能く殺人力有るが故に、殺仏して説法せしめず、殺生して聴法せしめず。不説法・不聴法の時、如何。
 人々、本より父母所生の身に非ず。

現代のような端午の節句は、あくまでも鎌倉時代の武家社会にて始まったこととされており、叢林内部には関わりなかったと思われ、それが証拠に、こちらの上堂も全く関係ない状況として描かれています。なお、この上堂語は道元禅師が『永平広録』巻3-242上堂で拈提された『宏智禅師広録』巻4・「明州天童山覚和尚上堂語録」の一則から引用したことは明らかです。ただし、二句目から改変がなされており、そこには瑩山禅師の意図を正しく把握していくべきでしょう。

それはつまり、「百草頭上に生殺新たなり」ということです。この「新た」というのは、「古」に対応する事象では無くて、何物の既定も受けていない、本来の面目の独露した状態をいいます。よって、自ら甘いはずの「甘草」も、その自らの限定的本質を知らず、自ら苦いはずの「黄連」も、その自らの限定的本質を分別しないのです。では、良く本質に到る「草」は如何なる存在か?瑩山禅師は、「不萌の草」だとしています。これは、生えることなき草ですが、あらゆる事象の「兆す以前」を意味していますので、まさに「無分別なる本来の面目」であるわけです。

よって、それはつまり、「本より甘・酢・苦・辛・鹹・淡を離る」ということであり、「曽て地・水・火・風・空・識に非ず」ということです。前者は、「六味」を離れるということです。問題は、「六」というより、「あらゆる味の既定を受けていない事象」を指し示すことが目的となることです。後者も、「六大」を離れるということです。「六大」とは、密教で用いる概念ですが、万有の本体となる6つの根本要素を指し、普通は最初の「四大」のみですが、そこに「空大・識大」を加えたのが六大で、密教ではこれら全てを、大日如来の象徴だと見なします。なお、道元禅師は『正法眼蔵』「山水経」巻で、「六大」について触れますので、瑩山禅師はその影響を受けたものでしょうか。この辺は日本の曹洞宗系統に於ける密教的な文脈の混入とでも見た方が良いのかもしれません。中国の禅籍には、ほとんど見えないためです。

さて、この本来の面目の独露ですが、瑩山禅師は「殺人力」があると述べておられます。これは、単純に、人を殺す力としてのみ理解してはなりません。つまり、あらゆる事象の機兆を否定するということです。その時、人はただの人としては居れません。その状態を、「殺」としているのです。つまり、あらゆる事象の機兆すら否定するということは、仏は仏として居れません。衆生も衆生として居れません。よって、殺仏して説法せしめず、殺衆生して聴法せしめないのです。

ここで、瑩山禅師は「殺」から「本来の面目」に到る過程が十分に、学人に理解出来たと見てか、話を転換します。それはつまり、改めて「本来の面目」そのものの実態を学人に尋ねるのです。それが、「不説法・不聴法の時」です。本来の面目は、あらゆる事象の機兆すら否定され切った世界です。そうなると、「不」を通して到るしか無いのです。そして、瑩山禅師の発した応答は、「人々、本より父母所生の身に非ず」でした。これはつまり、「父母所生」という事象の機兆を否定しながら、そこにおわす、本来人を指し示すことです。

つまり、瑩山禅師はこの端午の節句に於ける「生殺新た」なる状況に於いて、「本来人」として居れ、と弟子達に促したのです。これはまさに、道元禅師の説法を正しく受け嗣いだ人に相応しい内容だといえましょう。今日は、そのようなことを学び、端午の節句のお祝いにしたいと思います。

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