以下の一節をご覧いただきたい。
仏弟子とは、二種有り。
一つには在家、二つには出家なり。
在家とは、初め五戒を受けて本と為す。三悪趣を遮り、人天の福を求む。未だ永く家・眷属・縁累を捨てること能わざるを以ての
故に、更に三戒を加えて前の五戒を助く。一日一夜の種、未来世に永く因縁を出んとす。
出家とは、行に始終有り、上中下業なり。下出家とは、先ず十戒を以て本と為し、形を尽くして受持す。
『大比丘三千威儀』冒頭
要するに、仏弟子には在家・出家の2種類があって、在家は五戒を守って良いことを行い、三悪趣(三途)に行かないようにして、人間界・天上界に生まれ変わる幸せを目指しているが、それだけだという。一方で出家者は十戒を守り、この人生が尽きるまで護持するという。
そうなると、この場合の「十戒」とは何を意味しているのだろうか?少なくとも、「尽形寿」の文脈に於いて護持されているとすれば、いわゆるの菩薩戒ではあるまい。ただそうなると、声聞戒に於いて十戒という戒本は、良く分からないところである。
ただし、同経に於いて出家を「上中下」に分けて、ここでいわれているのが「下出家」であることを考えると、更に上の「中出家・上出家」との対比によって理解出来るかもしれない。ただし、戒についていわれているのは「中出家」であり、「上出家」の場合は持戒を成就して良く禅定を発し、智慧を得るというから、これは修行が進んだ者になるといえよう。
上中下というと、本来具わった機根のようなものを意味しているのかと思ってしまうが、この場合は修行の進展に関わるようである。そこで、「中出家」を見ると、以下のようにある。
中出家は、始め具戒を受けるも、沙門の儀法未だ周悉すること能わず。須らく長く有徳に宿して依止し、行ずることを要す。
同上
ここで、中出家が具足戒を受け、また依止師に就くように示されていることが分かる。つまり、これこそが声聞戒であり、声聞戒の場合は受けてから5年の間、いわゆる戒師(和尚)や教授(阿闍黎)に就いて持戒の作法を学ぶものとされているから、中出家とは正式な比丘になることを意味していることが分かる。
ここから下出家については、十戒を護持することも併せて考えると、いわゆる「沙弥」になることを意味しているのだろう。「十戒」とは「沙弥十戒」と考えると、自然であることが分かる。『梵網経』で説く菩薩の「十重禁戒」などではないのである。
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一つには在家、二つには出家なり。
在家とは、初め五戒を受けて本と為す。三悪趣を遮り、人天の福を求む。未だ永く家・眷属・縁累を捨てること能わざるを以ての
故に、更に三戒を加えて前の五戒を助く。一日一夜の種、未来世に永く因縁を出んとす。
出家とは、行に始終有り、上中下業なり。下出家とは、先ず十戒を以て本と為し、形を尽くして受持す。
『大比丘三千威儀』冒頭
要するに、仏弟子には在家・出家の2種類があって、在家は五戒を守って良いことを行い、三悪趣(三途)に行かないようにして、人間界・天上界に生まれ変わる幸せを目指しているが、それだけだという。一方で出家者は十戒を守り、この人生が尽きるまで護持するという。
そうなると、この場合の「十戒」とは何を意味しているのだろうか?少なくとも、「尽形寿」の文脈に於いて護持されているとすれば、いわゆるの菩薩戒ではあるまい。ただそうなると、声聞戒に於いて十戒という戒本は、良く分からないところである。
ただし、同経に於いて出家を「上中下」に分けて、ここでいわれているのが「下出家」であることを考えると、更に上の「中出家・上出家」との対比によって理解出来るかもしれない。ただし、戒についていわれているのは「中出家」であり、「上出家」の場合は持戒を成就して良く禅定を発し、智慧を得るというから、これは修行が進んだ者になるといえよう。
上中下というと、本来具わった機根のようなものを意味しているのかと思ってしまうが、この場合は修行の進展に関わるようである。そこで、「中出家」を見ると、以下のようにある。
中出家は、始め具戒を受けるも、沙門の儀法未だ周悉すること能わず。須らく長く有徳に宿して依止し、行ずることを要す。
同上
ここで、中出家が具足戒を受け、また依止師に就くように示されていることが分かる。つまり、これこそが声聞戒であり、声聞戒の場合は受けてから5年の間、いわゆる戒師(和尚)や教授(阿闍黎)に就いて持戒の作法を学ぶものとされているから、中出家とは正式な比丘になることを意味していることが分かる。
ここから下出家については、十戒を護持することも併せて考えると、いわゆる「沙弥」になることを意味しているのだろう。「十戒」とは「沙弥十戒」と考えると、自然であることが分かる。『梵網経』で説く菩薩の「十重禁戒」などではないのである。
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