中国では、三武一宗の破仏というのが有名で、4人の皇帝が時間を隔てて大規模な、反仏教的政策を施行したと知られています。この国では、歴代の皇帝が、自分の前任者と反対のことをする、というのがあったようで、前任者が余りに仏教に帰依しすぎると、その反動で、後任が破仏する、という流れがあったとも聞いています。
その大規模な破仏の中でも、最大の物となったのが、「会昌の法難」と呼ばれるもので、唐の武宗が、会昌3〜4年(843〜844)に天下に大号令をかけて行ったものです。この法難で、中国仏教は大打撃を受けました。理由は、国家の経済的な問題、教団内の僧尼の腐敗堕落や、私度僧(国家が認めていない僧)が横行したことに依るものとされていますが、武宗自身が道教に帰依していたともいわれ、その関係もあったとされています。
この時、例えば日本に弘法大師空海が伝えた密教も、やはり大打撃を受けており、事実上この後の中国では、密教が単一の宗派として成立しなかったと聞いていますし、日本から中国留学していた比叡山の円仁(慈覚大師)は、その著『入唐求法巡礼行記』に詳しく破仏のありさまを記述しています。
拙僧的には、現在の日本も同じ状況にあるのだろうな、と思っています。まだ、明治維新の時の廃仏毀釈以降、大なり小なり常に仏教は排撃されていて、今でもその状況は変わっていません。部分的にはそうではないという人もいるかもしれませんが、しかし、もう日本の民衆の意識が全く話にならないので、未だに排仏の影響は残り続けていると見るべきなのです。
さて、今日はそのようなことを書きたくて記事にしたのではなくて、中国で面白い問答を見つけたので、それを検討してみようと思っています。仏教には「護法神」「諸天善神」などと呼ばれる、仏教への守護神がいるとされています。それこそ、インドの仏教書にも多数見られる「梵天」や「帝釈天」もそうです。或いは、中国に来てから盛んに信仰されるようになった「韋駄天」なども、皆さんには馴染みの名前でしょう。
そこで、こういう護法神達は、当然に仏教徒を守ってくれる存在であるのに、「会昌の法難」の時はどこで何をしていたのか?という疑問が、一部の禅僧の中に出て来たようなのです。いつも、護法神には、諷経や念誦などを通して功徳を回向しているはずなのに、いざという時に役に立たないのは、如何なることか?という話です。その問答が、次のものです。
師、風穴に在る時、一日、穴問う「真園頭、会昌の沙汰の時、護法善神、什麼の処に向かって去るや」と。
師云く、「常に闤闠中に在り。要且すらくは、人の見ること無し」と。
穴云く、「你、徹せり」と。
『天聖広燈録』巻16・汝州広慧禅院真禅師
ここでいう風穴というのは、臨済宗の風穴延沼(896〜973)のことです。そして、もう一方の人は、その弟子である広慧真禅師です。残念ながら、この真禅師という方については、詳しいことは分かっていないのですけれども、ただ、風穴禅師の下で、園頭という、荘園管理を行う役に当たっていた人だったようです。或る日、師匠である風穴が、その真禅師に「会昌の破仏の時、護法善神はどこに行っていたんかのう?」と聞くわけです。
それに対する真禅師の返答は、「常に闤闠(=街中)にいたのですが、ただし、誰も見ることがありませんでした」と答えています。この言葉を受けて、風穴禅師は真禅師の禅境を証明しています。
とても面白い発想です。護法神はどこに行ったのか?と聞く師に対し、街中にいたけど、誰も見ていない、というのは、「街中」をどう解釈するかで、幾つもの文脈を引き出せてしまいそうです。まずは、寺院というのが山間部にあるとすれば、「会昌の破仏の時には、護法神達、街に遊びに行っていたようですよ」という話になるでしょう。ここには、同様に、街中で遊んでいたであろう僧侶達への批判も含まれているように感じます。
或いは、「顕と冥」の問題から考えてみると、街中にいるそれら護法神は、誰の目にも止まらない、という話になるでしょう。神秘的存在は、常に街中の喧騒からは離れた存在だからです。にもかかわらず、そこにいたということは、自らの本分を離れ、そして役に立つことはない、という話に進みます。ここにもやはり、本分に徹しない者への批判が見えますが、その批判を通して逆に、真禅師本人が徹見している「本来の面目」が輝くわけです。よって、風穴禅師は証明したということになるでしょう。
まぁ、後、禅僧的なテンションからすると、「こいつらあてになんないね」で済むのかもしれません(笑)
また、これとよく似た話が、中国曹洞宗の宏智正覚禅師が撰集した『宏智頌古』百則の「第二十八則・護国三懡」にも見えるのですが、それはまた別の機会に採り上げてみましょう。
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その大規模な破仏の中でも、最大の物となったのが、「会昌の法難」と呼ばれるもので、唐の武宗が、会昌3〜4年(843〜844)に天下に大号令をかけて行ったものです。この法難で、中国仏教は大打撃を受けました。理由は、国家の経済的な問題、教団内の僧尼の腐敗堕落や、私度僧(国家が認めていない僧)が横行したことに依るものとされていますが、武宗自身が道教に帰依していたともいわれ、その関係もあったとされています。
この時、例えば日本に弘法大師空海が伝えた密教も、やはり大打撃を受けており、事実上この後の中国では、密教が単一の宗派として成立しなかったと聞いていますし、日本から中国留学していた比叡山の円仁(慈覚大師)は、その著『入唐求法巡礼行記』に詳しく破仏のありさまを記述しています。
拙僧的には、現在の日本も同じ状況にあるのだろうな、と思っています。まだ、明治維新の時の廃仏毀釈以降、大なり小なり常に仏教は排撃されていて、今でもその状況は変わっていません。部分的にはそうではないという人もいるかもしれませんが、しかし、もう日本の民衆の意識が全く話にならないので、未だに排仏の影響は残り続けていると見るべきなのです。
さて、今日はそのようなことを書きたくて記事にしたのではなくて、中国で面白い問答を見つけたので、それを検討してみようと思っています。仏教には「護法神」「諸天善神」などと呼ばれる、仏教への守護神がいるとされています。それこそ、インドの仏教書にも多数見られる「梵天」や「帝釈天」もそうです。或いは、中国に来てから盛んに信仰されるようになった「韋駄天」なども、皆さんには馴染みの名前でしょう。
そこで、こういう護法神達は、当然に仏教徒を守ってくれる存在であるのに、「会昌の法難」の時はどこで何をしていたのか?という疑問が、一部の禅僧の中に出て来たようなのです。いつも、護法神には、諷経や念誦などを通して功徳を回向しているはずなのに、いざという時に役に立たないのは、如何なることか?という話です。その問答が、次のものです。
師、風穴に在る時、一日、穴問う「真園頭、会昌の沙汰の時、護法善神、什麼の処に向かって去るや」と。
師云く、「常に闤闠中に在り。要且すらくは、人の見ること無し」と。
穴云く、「你、徹せり」と。
『天聖広燈録』巻16・汝州広慧禅院真禅師
ここでいう風穴というのは、臨済宗の風穴延沼(896〜973)のことです。そして、もう一方の人は、その弟子である広慧真禅師です。残念ながら、この真禅師という方については、詳しいことは分かっていないのですけれども、ただ、風穴禅師の下で、園頭という、荘園管理を行う役に当たっていた人だったようです。或る日、師匠である風穴が、その真禅師に「会昌の破仏の時、護法善神はどこに行っていたんかのう?」と聞くわけです。
それに対する真禅師の返答は、「常に闤闠(=街中)にいたのですが、ただし、誰も見ることがありませんでした」と答えています。この言葉を受けて、風穴禅師は真禅師の禅境を証明しています。
とても面白い発想です。護法神はどこに行ったのか?と聞く師に対し、街中にいたけど、誰も見ていない、というのは、「街中」をどう解釈するかで、幾つもの文脈を引き出せてしまいそうです。まずは、寺院というのが山間部にあるとすれば、「会昌の破仏の時には、護法神達、街に遊びに行っていたようですよ」という話になるでしょう。ここには、同様に、街中で遊んでいたであろう僧侶達への批判も含まれているように感じます。
或いは、「顕と冥」の問題から考えてみると、街中にいるそれら護法神は、誰の目にも止まらない、という話になるでしょう。神秘的存在は、常に街中の喧騒からは離れた存在だからです。にもかかわらず、そこにいたということは、自らの本分を離れ、そして役に立つことはない、という話に進みます。ここにもやはり、本分に徹しない者への批判が見えますが、その批判を通して逆に、真禅師本人が徹見している「本来の面目」が輝くわけです。よって、風穴禅師は証明したということになるでしょう。
まぁ、後、禅僧的なテンションからすると、「こいつらあてになんないね」で済むのかもしれません(笑)
また、これとよく似た話が、中国曹洞宗の宏智正覚禅師が撰集した『宏智頌古』百則の「第二十八則・護国三懡」にも見えるのですが、それはまた別の機会に採り上げてみましょう。
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