Quantcast
Channel: つらつら日暮らし
Viewing all articles
Browse latest Browse all 15728

損翁禅師の『金剛経』提唱3(改・或る僧の修行日記4)

$
0
0
江戸時代の学僧である面山瑞方師の本師、仙台泰心院の損翁宗益禅師は、『金剛般若経』を重視していたことは明らかでありますが、今日もその一節を見ていきたいと思います。

 師の処に僧が来て問うには、「『一切の有為の存在は、夢・幻・泡・影のように、露のように、また電のように、まさにこのような見方をすべきだ』と(『金剛経』では)いいます。もし、このようであれば、つまり『如夢幻泡影、如露亦如電』とは、みな一切有為の存在であります。どうして、無為の存在を示さないのでしょうか」と。
 お師匠様がいわれるには、「『応作如是観』の時、皆これが無為の存在となるのみだからだ」と。
    面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳

余りに細かなところまでお話しになっているわけではありませんが、そもそも、宗乗の宣揚こそが提唱ですから、文脈の長短に、提唱の性格が依存するわけではありません。さて、或る僧が損翁禅師のところに来て、『金剛般若経』の末尾に付されている偈の「一切有為法、如夢・幻・泡・影、如露亦如電、応作如是観」について質問しています。質問の内容は、上記訳文の通りですが、一切の有為の存在、つまり、今この目の前にあって生滅する存在について、「夢・幻・泡・影・露・電」のように、儚き存在として見るように促しているのですが、どうにもそれでは、結局のところ「有為」から出られないのではないか?というわけです。そうではなく、ズバリと無為のありようを直指されないのは何故か?としているわけです。

それに対し、損翁禅師の返答は、「応作如是観」という、我々自身の「観」に、実は、「無為性」が発現されるので、譬えとしての「有為」に拘る必要はないとしているといえましょう。ここから考えてみると、先に質問した僧は、文字を文字として捉え、その概念の中で質問していることが分かります。だからこそ、譬えが適切ではないという話になるわけですが、一方で損翁禅師は、その自らの行の側から、真実相を示そうとしています。対象の諸相が問題なのではなく、あくまでも、自らの問題です。

これを思う時、同じ『金剛般若経』に、以下の一節があったことを思い出します。

仏、須菩提に告げたまわく、「凡そ有る所の相は、皆、是、虚妄なり。若し諸相を非相と見れば、則ち如来を見る」。

諸相なのに、非相と見る時、それを如来だというわけですが、ここでも、諸相という対象の側に問題があるのではなくて、「非相として見るという時、如来を見る」という、こちら側の問題であることが分かります。よって、損翁禅師の回答は、このような文脈をも踏まえた上での返答であったのだろうと拝察できるわけです。ここからも、損翁禅師による『金剛経』への参究は、かなり徹底したものであったのだろうと思うわけです。

曹洞宗は禅宗で、そのために「不立文字」であるから、経典の参究などないと思っている人も多いかもしれませんが、それは余りに偏った見方だと思わざるを得ません。不立文字を批判したい人が、禅宗の文献を「不立文字」してはなりません。その時、禅宗が説く不立文字の真の意味が理解できるでしょう。『金剛経』に限っても、六祖慧能禅師はこの経典でもって得道の機縁を得たとされていますし、「兄弟、若し看経を要せば、須らく曹谿の挙す所の経教に憑くべし。いわゆる法華・涅槃・般若等の経、乃ち是れなり。曹谿、未だ挙げざるの経、用いて何とも為さず」(『永平広録』巻5-383上堂)という文脈もあります。よって、経を読むのなら、曹渓慧能禅師の挙げたものにしなさい、というわけですが、それに『般若経』が入っています。勿論、『金剛経』も入るわけですが、ここからも、不立文字を即当て嵌められない実態が見えてきます。

よって、江戸期に経典の参究がなされていたのは、もちろんのことなのです。まぁ、「雑学事件」の影響で、ここに来るまで紆余曲折はあったでしょうが・・・

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 15728

Trending Articles