ずいぶん前のことですが、HN:院長さんという方から、「釈尊は父母の恩を説きませんでした。勉強してください」というような趣旨のコメントを頂戴しました。そこで、拙僧なりにこの見解が正しいか調べてみようと思います。まず拙僧は、「釈尊は●●のことをしなくても良いといった」と釈尊に帰している言説は余り信じていません。理由は、その発話者本人が、予め持っていた見解に、釈尊のそれを重ね合わせようとしている場合が多いからです。
しかも、「●●と言わなかった」というのは、実証するのが本当に難しいです。逆に、「●●と言いました」というのは容易にいえます。欠落を証明するのは、難解なわけです。結局そのために、他の類似した文脈を提示して、そこから類推的に表現するしかないわけですが、仏陀釈尊が、父母の恩を説く状況について、1つは以前に記事にした【「父の日」と仏教について(平成23年度版)】があります。
そして、今日見ていく『善生経』(『六方礼経』)もまた、仏陀釈尊が父母への恩を説く教典として理解できるのです。現在、『大正蔵』に『六方礼経』として入っているのは、大乗的色彩が強いともいわれていますので、敢えて『長阿含経』に入っている『善生経』を見ていきたいと思います。
そもそもこの経典は、善生という長者がいて、「東西南北上下」の諸方にことごとく礼拝していたといいます。よって、『六方礼経』とも、『善生経』ともいうわけです。しかし、この善生は、親が亡くなる時に遺した言いつけを守って六方を礼拝していましたが、何故六方であるのか?或いは、その六方の一々が何を意味するのかが分かっていなかったため、釈尊が法を説いたのであります。その説法の基本は、以下の通りです。
・長者(或いはその子供)は、四結業を知り、悪行をしない。
・財産を失わせる六つの要素(六損)を知る。
・四悪行を離れる。
・六方を礼拝する。
まずは、これらが説かれますが、14の悪行から離れることが肝心なのです。このことが今世で実現できますと、来世も良くなり、更に、天の善処に生ずる事が出来るとするのです。仏陀による在家信者の説法については、その理想を「生天」に置くことは周知の通りです。それで、この事柄についての詳細な説法が続くのですが、最後の「まさに六方を知るべし」から始まる、いわゆる「六方礼」の説法が見えるのであります。
まさに六方を知るべし。云何が六方となす。父母東方たり、師長南方たり、妻婦西方たり、親党北方たり、僮僕下方たり、沙門婆羅門・諸の高行者は上方たり。
ここで、仏陀は六方への礼拝の時、それぞれの対象を説いているのです。そして、更に具体的内容として、各々の一方について、五事ずつ道理を説きますが、例えば父母への恭順は以下のように説かれます。
善生、それ人の子たるや、まさに五事を以て父母に恭順なるべし。云何が五と為す。
一は、供奉して能く乏しきを無からしむ。
二は、凡て為す所有りて先に父母に白す。
三は、父母の為す所に恭順して逆らわず。
四は、父母の正命に敢えて違背せず。
五は、父母の為す所の正業を断たず。
仏陀は、人の子であれば、この5つのことを心掛けておくべきだといいます。この様子を見る限り、完全に子は親にしたがうという発想であることは、いうまでもありません。更に、「供奉して」という事柄が出ています。このことから、いわゆる「先祖供養」の概念が導き出せることは注意しておくべきだろうと思います。上記の『善生経』からは分かりにくいのですが、南伝パーリ仏典の該当経典である「シンガーラ経」には次のように示されています。
26資産家の子よ、五の理由によって、子は東方である母父に奉仕すべきです。
(1)養われた私はかれらを養おう、
(2)かれらの用事を行おう、
(3)家系を存続させよう、
(4)財産を相続して行こう、あるいはまた、
(5)亡くなった祖霊に供物を捧げよう、
と。
片山一良先生訳『長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇?』大蔵出版、379頁
(5)をご覧下さい。漢訳では「供奉」と分かりにくかったことが、ここで「亡くなった祖霊に供物を捧げよう」という概念になっていることに注目しなくてはなりません。これこそ、先祖供養なのであります。無論、ここまで述べて、であれば、これに出家者がどう関わるべきか?というような話であるとか、問題は残るところではあります。ただ、仏教は先祖供養を否定した、というのは、そう簡単にいえることではありません。仏陀は、基本的に他の宗教に対して寛容であった人です。そして、各々が保持していた宗教観や、儀礼などは、余程のことがなければ、そのままにし、或いは上記に見るように、正しき道理を説いて、修正することもありました。
よって、仏教であるから、「●●しなければならない」「●●してはならない」というような、細かな取り決めを行うのは、ナンセンスであり、単純に何が善行で、何が悪行かを考えれば良いのであります。その時、親への孝行が、善行になるのは当たり前のことです。何故なら、その親の力によって育てていただいたからです。我々はその恩に報いる必要があります。仏陀はそのことを承知しておられました。だからこそ、この『善生経』では、父母からの加護を得るために、子供として行わねばならないこととして、上記のことが示されました。
そろそろ8月のお盆もたけなわではありますが、在家の方は特に、仏陀が仰ったように、亡くなった祖霊(先祖累代精霊)に対する供養を忘れずに行っていただきたいと思います。そのために、精霊棚を作り、僧侶を招いて棚経を行うのだとご理解下さい。
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しかも、「●●と言わなかった」というのは、実証するのが本当に難しいです。逆に、「●●と言いました」というのは容易にいえます。欠落を証明するのは、難解なわけです。結局そのために、他の類似した文脈を提示して、そこから類推的に表現するしかないわけですが、仏陀釈尊が、父母の恩を説く状況について、1つは以前に記事にした【「父の日」と仏教について(平成23年度版)】があります。
そして、今日見ていく『善生経』(『六方礼経』)もまた、仏陀釈尊が父母への恩を説く教典として理解できるのです。現在、『大正蔵』に『六方礼経』として入っているのは、大乗的色彩が強いともいわれていますので、敢えて『長阿含経』に入っている『善生経』を見ていきたいと思います。
そもそもこの経典は、善生という長者がいて、「東西南北上下」の諸方にことごとく礼拝していたといいます。よって、『六方礼経』とも、『善生経』ともいうわけです。しかし、この善生は、親が亡くなる時に遺した言いつけを守って六方を礼拝していましたが、何故六方であるのか?或いは、その六方の一々が何を意味するのかが分かっていなかったため、釈尊が法を説いたのであります。その説法の基本は、以下の通りです。
・長者(或いはその子供)は、四結業を知り、悪行をしない。
・財産を失わせる六つの要素(六損)を知る。
・四悪行を離れる。
・六方を礼拝する。
まずは、これらが説かれますが、14の悪行から離れることが肝心なのです。このことが今世で実現できますと、来世も良くなり、更に、天の善処に生ずる事が出来るとするのです。仏陀による在家信者の説法については、その理想を「生天」に置くことは周知の通りです。それで、この事柄についての詳細な説法が続くのですが、最後の「まさに六方を知るべし」から始まる、いわゆる「六方礼」の説法が見えるのであります。
まさに六方を知るべし。云何が六方となす。父母東方たり、師長南方たり、妻婦西方たり、親党北方たり、僮僕下方たり、沙門婆羅門・諸の高行者は上方たり。
ここで、仏陀は六方への礼拝の時、それぞれの対象を説いているのです。そして、更に具体的内容として、各々の一方について、五事ずつ道理を説きますが、例えば父母への恭順は以下のように説かれます。
善生、それ人の子たるや、まさに五事を以て父母に恭順なるべし。云何が五と為す。
一は、供奉して能く乏しきを無からしむ。
二は、凡て為す所有りて先に父母に白す。
三は、父母の為す所に恭順して逆らわず。
四は、父母の正命に敢えて違背せず。
五は、父母の為す所の正業を断たず。
仏陀は、人の子であれば、この5つのことを心掛けておくべきだといいます。この様子を見る限り、完全に子は親にしたがうという発想であることは、いうまでもありません。更に、「供奉して」という事柄が出ています。このことから、いわゆる「先祖供養」の概念が導き出せることは注意しておくべきだろうと思います。上記の『善生経』からは分かりにくいのですが、南伝パーリ仏典の該当経典である「シンガーラ経」には次のように示されています。
26資産家の子よ、五の理由によって、子は東方である母父に奉仕すべきです。
(1)養われた私はかれらを養おう、
(2)かれらの用事を行おう、
(3)家系を存続させよう、
(4)財産を相続して行こう、あるいはまた、
(5)亡くなった祖霊に供物を捧げよう、
と。
片山一良先生訳『長部(ディーガニカーヤ)パーティカ篇?』大蔵出版、379頁
(5)をご覧下さい。漢訳では「供奉」と分かりにくかったことが、ここで「亡くなった祖霊に供物を捧げよう」という概念になっていることに注目しなくてはなりません。これこそ、先祖供養なのであります。無論、ここまで述べて、であれば、これに出家者がどう関わるべきか?というような話であるとか、問題は残るところではあります。ただ、仏教は先祖供養を否定した、というのは、そう簡単にいえることではありません。仏陀は、基本的に他の宗教に対して寛容であった人です。そして、各々が保持していた宗教観や、儀礼などは、余程のことがなければ、そのままにし、或いは上記に見るように、正しき道理を説いて、修正することもありました。
よって、仏教であるから、「●●しなければならない」「●●してはならない」というような、細かな取り決めを行うのは、ナンセンスであり、単純に何が善行で、何が悪行かを考えれば良いのであります。その時、親への孝行が、善行になるのは当たり前のことです。何故なら、その親の力によって育てていただいたからです。我々はその恩に報いる必要があります。仏陀はそのことを承知しておられました。だからこそ、この『善生経』では、父母からの加護を得るために、子供として行わねばならないこととして、上記のことが示されました。
そろそろ8月のお盆もたけなわではありますが、在家の方は特に、仏陀が仰ったように、亡くなった祖霊(先祖累代精霊)に対する供養を忘れずに行っていただきたいと思います。そのために、精霊棚を作り、僧侶を招いて棚経を行うのだとご理解下さい。
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