拙僧の知り合いの人(在家)と、珍しく宗教の話になって、色々と話していたら、その人が唐突に、「私の知り合いに、浄土真宗の人がいるんだけど、良く『死ねばそれで何も無くなるから供養もしないんだ』といっている」といった。拙僧驚いた。これは、仏教ではない。
浄土真宗の教義的な面については、個人的に親鸞聖人や蓮如上人、或いは、近代以降の様々な説教集にも目を通すことがあるが、この教えは余りに俗化されすぎている気がする。それとも、現在の真宗は、本気でこんなことを説いているのだろうか?確かに、真宗では先祖供養などをしないと聞いている。でも、その理由は、供養するべき対象が不在だから、ではなくて、凡夫である以上、一切の功徳を積む修行が出来ないので、行えない、という立場だからだと聞いていたし、その通りだと思っていた。一例として、【「不回向の行」について】という記事をご覧いただくと良いと思う。
でも、これは、或る意味、自ら自身の無能さを前提にしなくてはならず、すっかり宗教として日本に土着し、いくら戒を受けなくても、「得度」はするらしい浄土真宗も、一人前の「僧侶気取り」ということで、へりくだった教えなど説けなくなってしまい、裏返しで、供養の対象の不在を思い付いてしまったのだろうか?だとすれば、言葉は悪いかもしれないが、ただの「断見外道」である。
この教えについては、以下の如浄禅師の教えが分かり易いと思う。
道元、拝問す。今、諸方、古今の長老等の云く、「聞けども聞かず、見れども見ず、直下に一点の計較も無きこそ、乃ち仏祖の道なり」と。是を以て拳を竪て払を竪て、喝を放ち棒を行じて、学者をして一も卜度することなからしめ、遂に則ち、仏化の始終を問わず、二生の感果を期することなからしむ。これ等、是の如き等の類、仏祖の道たるべしや。
和尚、示して云く。もし二生無くんば、実に是れ断見外道なり。仏々祖々、人のために教えを設くるに、都て外道の言説無し。若し二生無くんば、乃ち今生も有るべからず。此の世既に存せし、何ぞ二生無からんや。我が儻は久しく是れ仏子なり、何ぞ外道に等しからん。又、学人をして直下に第二点無からしむるが如きは、仏祖の一方の善巧方便なり。学人の為には、而も所得無きには非ざるなり。若し所得無しとせば、善知識に参問すべからず、諸仏も出世したまわざるなり。唯だ直下に見聞して、便ち了ぜんことのみを要し、更に信及無く、更に修証すること無くんば、北州、豈に仏化を得ざらんや、北州、豈に見聞覚知無からんや。
道元禅師『宝慶記』第3問答
死んだ後、その次の人生(二生)が無いという発想は、「断見外道」である。良く、ゴータマ=ブッダは輪廻を説かなかったという謬説を、未だに信じている“頭がお花畑”の人も多いようだが、それは虚偽である。ゴータマ=ブッダは、出家者には輪廻からの解脱を説いているが、それは、出家すれば必ず解脱出来るという教えではなくて、「解脱を目標に頑張れ」という教えであって、いきなり解脱出来るのではない。それは、仏陀や阿羅漢と呼ばれる「一握りの人達」である。例えば、原始仏教が好きな人が、事有る毎に参照したがるブッダの『ダンマパダ』には、次のようにある。
さとりの究極に達し、恐れること無く、無欲で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。
中村元博士訳『真理のことば』岩波文庫、59頁
このように、さとりの究極に達した人だけが、「生存の矢」を断ち切り、生まれ変わりをしない「最後の身体」を得るのである。よって、在家信者には、正しく「輪廻」を説いている。それは、善業を積み、天上界に生まれ変わることを最上の目標とする「生天」の信仰である。この段階で、「輪廻する主体」の有無を問う議論もあったようだが、仏陀は結論を説いていない。いわゆる「無記」である。だが、「無記」というのは、単純化すれば、一種の不可知論に誤解されることもあるようだが、実際には議論をして、結論を得ても意味が無い事象について、議論を停止したというだけであって、不可知論ではない。出家して、「解脱」を目標にするということは、この主体の無さを目指せ、ということだが、逆にいえば、主体があるからこそ、それに把われ、輪廻するわけである。
だが、その中でも良いところに行こうというのが、生天であるともいえる。
つまり、死んだ後何も残らないというのは、仏教ではないといいたいのである。無論、それでも仏教だという人がいるかもしれない。だとすれば、信念体系の争いに賭けるしかない。そして、その段階で、まともな議論ではない。親鸞聖人の時代には、まだそこまでの独自路線ではなかったと思うのだが。
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浄土真宗の教義的な面については、個人的に親鸞聖人や蓮如上人、或いは、近代以降の様々な説教集にも目を通すことがあるが、この教えは余りに俗化されすぎている気がする。それとも、現在の真宗は、本気でこんなことを説いているのだろうか?確かに、真宗では先祖供養などをしないと聞いている。でも、その理由は、供養するべき対象が不在だから、ではなくて、凡夫である以上、一切の功徳を積む修行が出来ないので、行えない、という立場だからだと聞いていたし、その通りだと思っていた。一例として、【「不回向の行」について】という記事をご覧いただくと良いと思う。
でも、これは、或る意味、自ら自身の無能さを前提にしなくてはならず、すっかり宗教として日本に土着し、いくら戒を受けなくても、「得度」はするらしい浄土真宗も、一人前の「僧侶気取り」ということで、へりくだった教えなど説けなくなってしまい、裏返しで、供養の対象の不在を思い付いてしまったのだろうか?だとすれば、言葉は悪いかもしれないが、ただの「断見外道」である。
この教えについては、以下の如浄禅師の教えが分かり易いと思う。
道元、拝問す。今、諸方、古今の長老等の云く、「聞けども聞かず、見れども見ず、直下に一点の計較も無きこそ、乃ち仏祖の道なり」と。是を以て拳を竪て払を竪て、喝を放ち棒を行じて、学者をして一も卜度することなからしめ、遂に則ち、仏化の始終を問わず、二生の感果を期することなからしむ。これ等、是の如き等の類、仏祖の道たるべしや。
和尚、示して云く。もし二生無くんば、実に是れ断見外道なり。仏々祖々、人のために教えを設くるに、都て外道の言説無し。若し二生無くんば、乃ち今生も有るべからず。此の世既に存せし、何ぞ二生無からんや。我が儻は久しく是れ仏子なり、何ぞ外道に等しからん。又、学人をして直下に第二点無からしむるが如きは、仏祖の一方の善巧方便なり。学人の為には、而も所得無きには非ざるなり。若し所得無しとせば、善知識に参問すべからず、諸仏も出世したまわざるなり。唯だ直下に見聞して、便ち了ぜんことのみを要し、更に信及無く、更に修証すること無くんば、北州、豈に仏化を得ざらんや、北州、豈に見聞覚知無からんや。
道元禅師『宝慶記』第3問答
死んだ後、その次の人生(二生)が無いという発想は、「断見外道」である。良く、ゴータマ=ブッダは輪廻を説かなかったという謬説を、未だに信じている“頭がお花畑”の人も多いようだが、それは虚偽である。ゴータマ=ブッダは、出家者には輪廻からの解脱を説いているが、それは、出家すれば必ず解脱出来るという教えではなくて、「解脱を目標に頑張れ」という教えであって、いきなり解脱出来るのではない。それは、仏陀や阿羅漢と呼ばれる「一握りの人達」である。例えば、原始仏教が好きな人が、事有る毎に参照したがるブッダの『ダンマパダ』には、次のようにある。
さとりの究極に達し、恐れること無く、無欲で、わずらいの無い人は、生存の矢を断ち切った。これが最後の身体である。
中村元博士訳『真理のことば』岩波文庫、59頁
このように、さとりの究極に達した人だけが、「生存の矢」を断ち切り、生まれ変わりをしない「最後の身体」を得るのである。よって、在家信者には、正しく「輪廻」を説いている。それは、善業を積み、天上界に生まれ変わることを最上の目標とする「生天」の信仰である。この段階で、「輪廻する主体」の有無を問う議論もあったようだが、仏陀は結論を説いていない。いわゆる「無記」である。だが、「無記」というのは、単純化すれば、一種の不可知論に誤解されることもあるようだが、実際には議論をして、結論を得ても意味が無い事象について、議論を停止したというだけであって、不可知論ではない。出家して、「解脱」を目標にするということは、この主体の無さを目指せ、ということだが、逆にいえば、主体があるからこそ、それに把われ、輪廻するわけである。
だが、その中でも良いところに行こうというのが、生天であるともいえる。
つまり、死んだ後何も残らないというのは、仏教ではないといいたいのである。無論、それでも仏教だという人がいるかもしれない。だとすれば、信念体系の争いに賭けるしかない。そして、その段階で、まともな議論ではない。親鸞聖人の時代には、まだそこまでの独自路線ではなかったと思うのだが。
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