以前、或るお寺の階段を上っていたところ、後ろからそのお寺の檀家さんだという老齢の男性が上っておられた。本堂前まで着いたとき、その方と話をする機会があった。その方は、次のようなことを仰っていた。
階段脇に手すりが作られたとき、最初は嫌で嫌でしょうがなかった。せっかく立派な石畳の階段があるのに、見た目が台無しではないかと怒ったんだな。住職にもずいぶんと文句をいったものだ。でも、自分が歳を取ってみて良く分かった。これは必要だったんだ。今は、手すりがあるから、こうやってお参りもできる。ありがたいことです。
拙僧、この言葉を聞いたとき、或る先生の言葉を思い出していた。それは、鎌田茂雄先生の以下の指摘である。
私も若いとき、『観音経』をずいぶん読んだことがあるが、ただ一心に南無観世音菩薩と称名していればいいというのは、なんとばかばかしい教えだ、これは堕落したやつがやるもので、まともな人間をごまかすために説いた教えであると思った。そしてそれよりも、きちんと朝から晩まで坐禅して、夜は夜坐をし、とにかく遮二無二やればいいのだと考えていた。
〈中略〉
愚男愚女が浅草へお参りに行く、あれは現世利益もいいところで、現世利益を説くのはほんとの宗教でないと思っていた。そうなるともう、お浄土に入りたいのも現世利益だから、これも宗教ではない。悟りを開こうと思うのも現世利益だから、これも宗教ではない。では、本当の宗教は何かというと、道元が説いているような無所得の宗教だなどと考えた時代があった。
そのうちだんだん年をとってくると、「浅きは深きなり」で、いちばん簡単なことというのはいちばんむずかしいということがわかってくる。
禅宗のお師家さんなんかだと、現世利益だ、そんなものはいらないんだと除いてしまうが、人間というのは弱いもので、『観音経』のような温かい教えも必要なのである。
鎌田茂雄先生『天台思想入門』講談社学術文庫、124〜125頁
いかがであろうか?何歳になっても、或る意味「頑固」に、「若作り」して、坐禅に励む人もいるとは思う。また、永平寺の故・宮崎奕保禅師さまのように、100歳を過ぎても修行僧たちと共に、坐禅された人もおられる。しかし、それは誰しもが真似できることではない。理想は高い方が良いが、老い先差し迫った状況で、理想ばかり語っているというのもどうかと思う。鎌田先生が指摘するような、人の「強さ弱さ」で考えるべきでもないとは思うけど、結局、修行の仕方や仏教への親しみ方って、「色々あって良い」と思うのだ。無論、その本人が右往左往して、あっちこっちを「つまみ食い」して歩くような真似は、しない方が良い。鎌田先生も、拙僧も、そんなことをいいたいのではない。
では、拙僧がこの鎌田先生の言葉を借りて申し上げたいこととは何であろうか?それは、先の老齢の男性に対しても共通していえることだが、結局は、「若いからこそ正しく思っていることを、全世代・全人類共通の普遍的真理であるかのような錯覚を起こすな」、ということである。先の男性については、階段の見た目にばかり気を取られ、足の不自由な方への配慮が欠けているのだ。配慮が欠けているだけなら仕方ない、許せないのは、その配慮をしようとした者への「非難」まで行っていることだ。同じようなことは、若い頃の鎌田先生にもいえまいか?
今、実際に若くして仏教に志す人に逢っても同じことを感じるし、ネット上で「放言」しているような連中には尚更そう感じるのだが、何故、『観音経』のような教えを信じる人を、観音さまにお任せしているような人を、否定し、非難してしまうのだろうか?鎌田先生も「ほんとの宗教」なんて、傲慢にも「定義」してしまっているけれども、「ほんとの宗教」というのは、その本人が納得していることであれば、それがその本人にとって「ほんと」となるのであり、外野から定義されて良いことではない。
無論、カルトや霊感商法、原理主義など、一部にはその状況を断固として矯正しなくてはならない宗教的事象があるが、それは付帯事項でしか無く、大筋としては、各々の信じているモノは、それとして尊重されるべきである。つまり、今ここで、坐禅に勤しみ、自己の真実を明らかにしようとしている人、その人の精進は誰にも否定する権利はないし、むしろ頑張っていただきたいと頼もしく思うくらいだが、その人がもし、自分の努力を鼻に掛け、観音さまや阿弥陀さまにお任せしているような人を否定したとすれば、その人の坐禅は結局のところ、「名聞利養」でしかなかったと指摘できよう。
或いは、拙僧からお願いしたいことといえば、結局歳を取るなどして坐禅できなくなれば、その人は、観音さまや阿弥陀さまにお任せするときが来るかもしれない。その時を思い、今の自分に興味がないからといって、そういう他の信心を否定しないで欲しいのだ。或いは、葬式仏教と評される現状だってそうである。死ぬのは恐い、これは仕方のないことである。その恐怖から逃れる人というのは、万人に共通していることではあるまい。その恐怖と、不安からの脱却、そして遺族を襲うかもしれない悲嘆からの脱却に、もし現状の僧侶が行う葬式が助力しているとすれば、批判してはならない。それもまた、信心の成就の一つである。
以前、【仏教マニアは仏教徒に非ず】なんていう記事にも書いたけれども、坐禅が好きだという人がいるとして、その人がもし、他人にその好事家たるを承認させようとするならば、その人の坐禅は「染汚行」である。本当に好きだというのなら、他人の承認など待たずに、ただ淡々と修行していれば良い。いや、文字通り坐っているだけで良い・・・でも、只管打坐っていうのは、本当に難しいんだよ。
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階段脇に手すりが作られたとき、最初は嫌で嫌でしょうがなかった。せっかく立派な石畳の階段があるのに、見た目が台無しではないかと怒ったんだな。住職にもずいぶんと文句をいったものだ。でも、自分が歳を取ってみて良く分かった。これは必要だったんだ。今は、手すりがあるから、こうやってお参りもできる。ありがたいことです。
拙僧、この言葉を聞いたとき、或る先生の言葉を思い出していた。それは、鎌田茂雄先生の以下の指摘である。
私も若いとき、『観音経』をずいぶん読んだことがあるが、ただ一心に南無観世音菩薩と称名していればいいというのは、なんとばかばかしい教えだ、これは堕落したやつがやるもので、まともな人間をごまかすために説いた教えであると思った。そしてそれよりも、きちんと朝から晩まで坐禅して、夜は夜坐をし、とにかく遮二無二やればいいのだと考えていた。
〈中略〉
愚男愚女が浅草へお参りに行く、あれは現世利益もいいところで、現世利益を説くのはほんとの宗教でないと思っていた。そうなるともう、お浄土に入りたいのも現世利益だから、これも宗教ではない。悟りを開こうと思うのも現世利益だから、これも宗教ではない。では、本当の宗教は何かというと、道元が説いているような無所得の宗教だなどと考えた時代があった。
そのうちだんだん年をとってくると、「浅きは深きなり」で、いちばん簡単なことというのはいちばんむずかしいということがわかってくる。
禅宗のお師家さんなんかだと、現世利益だ、そんなものはいらないんだと除いてしまうが、人間というのは弱いもので、『観音経』のような温かい教えも必要なのである。
鎌田茂雄先生『天台思想入門』講談社学術文庫、124〜125頁
いかがであろうか?何歳になっても、或る意味「頑固」に、「若作り」して、坐禅に励む人もいるとは思う。また、永平寺の故・宮崎奕保禅師さまのように、100歳を過ぎても修行僧たちと共に、坐禅された人もおられる。しかし、それは誰しもが真似できることではない。理想は高い方が良いが、老い先差し迫った状況で、理想ばかり語っているというのもどうかと思う。鎌田先生が指摘するような、人の「強さ弱さ」で考えるべきでもないとは思うけど、結局、修行の仕方や仏教への親しみ方って、「色々あって良い」と思うのだ。無論、その本人が右往左往して、あっちこっちを「つまみ食い」して歩くような真似は、しない方が良い。鎌田先生も、拙僧も、そんなことをいいたいのではない。
では、拙僧がこの鎌田先生の言葉を借りて申し上げたいこととは何であろうか?それは、先の老齢の男性に対しても共通していえることだが、結局は、「若いからこそ正しく思っていることを、全世代・全人類共通の普遍的真理であるかのような錯覚を起こすな」、ということである。先の男性については、階段の見た目にばかり気を取られ、足の不自由な方への配慮が欠けているのだ。配慮が欠けているだけなら仕方ない、許せないのは、その配慮をしようとした者への「非難」まで行っていることだ。同じようなことは、若い頃の鎌田先生にもいえまいか?
今、実際に若くして仏教に志す人に逢っても同じことを感じるし、ネット上で「放言」しているような連中には尚更そう感じるのだが、何故、『観音経』のような教えを信じる人を、観音さまにお任せしているような人を、否定し、非難してしまうのだろうか?鎌田先生も「ほんとの宗教」なんて、傲慢にも「定義」してしまっているけれども、「ほんとの宗教」というのは、その本人が納得していることであれば、それがその本人にとって「ほんと」となるのであり、外野から定義されて良いことではない。
無論、カルトや霊感商法、原理主義など、一部にはその状況を断固として矯正しなくてはならない宗教的事象があるが、それは付帯事項でしか無く、大筋としては、各々の信じているモノは、それとして尊重されるべきである。つまり、今ここで、坐禅に勤しみ、自己の真実を明らかにしようとしている人、その人の精進は誰にも否定する権利はないし、むしろ頑張っていただきたいと頼もしく思うくらいだが、その人がもし、自分の努力を鼻に掛け、観音さまや阿弥陀さまにお任せしているような人を否定したとすれば、その人の坐禅は結局のところ、「名聞利養」でしかなかったと指摘できよう。
或いは、拙僧からお願いしたいことといえば、結局歳を取るなどして坐禅できなくなれば、その人は、観音さまや阿弥陀さまにお任せするときが来るかもしれない。その時を思い、今の自分に興味がないからといって、そういう他の信心を否定しないで欲しいのだ。或いは、葬式仏教と評される現状だってそうである。死ぬのは恐い、これは仕方のないことである。その恐怖から逃れる人というのは、万人に共通していることではあるまい。その恐怖と、不安からの脱却、そして遺族を襲うかもしれない悲嘆からの脱却に、もし現状の僧侶が行う葬式が助力しているとすれば、批判してはならない。それもまた、信心の成就の一つである。
以前、【仏教マニアは仏教徒に非ず】なんていう記事にも書いたけれども、坐禅が好きだという人がいるとして、その人がもし、他人にその好事家たるを承認させようとするならば、その人の坐禅は「染汚行」である。本当に好きだというのなら、他人の承認など待たずに、ただ淡々と修行していれば良い。いや、文字通り坐っているだけで良い・・・でも、只管打坐っていうのは、本当に難しいんだよ。
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