拙僧自身は、これまでそれ程意識したことはないのだが、こういうブログを続けていても、ネタに困ったことがない。ありがたいことである。おかげで、これまで続けているのだが、でも、たまに、「仏教概論書」或いは「法話集」などから一文を引いて、後、拙僧の私見を載せて終わらせてしまおうか?何ていう手抜きを思うこともある。
特に、疲れている時などは顕著かもしれない。
拙僧のブログの原動力は、何といっても、読む文献の量にあると思っている。たまたまそういう立場にいさせていただいているという事もあるので、一度に数十冊の本を読む。でも、その本も、疲れていると捗らない。よって、そういう時には、概論書などを引いてしまおうと思うのだ。まぁ、怠惰といえば怠惰である。とはいえ、やっぱりこれは良くない。
自戒を込めて申し上げるのだが、大概、概論書というのは、多くの文脈を手際よく参照できるように書かれているものだが、その中で、省略されてしまった文脈も多数ある。そして、それが、正当な理由で省略されているのならまだ我慢も出来るが、たまに、その作者の私見や、本人の思い込みなどによって省略されてしまう場合もある。例えば、近代仏教学全盛期に於いて書かれた日本仏教論の多くが、それであると断言してしまって良い。
専修念仏のような例もあるから微妙だとは思うが、しかし、総じて申し上げれば、日本の仏教というのは、「純粋性」「純一性」「絶対性」「普遍性」などとは「無縁」である。それどころか、「雑然性」「相対性」「特殊性」の集合というのが正しい。しかし、近代仏教学は、その不当なる思い込みで、前者こそが優れた宗教だと思い込み、日本仏教がまさにそれであると「弁証」しようとしたのである。
結果的に、道元禅師などは、専修思想に裏打ちされ、坐禅のみをやっていた人、という「誤ったイメージ」が植え付けられてしまった。しかし、晩年、永平寺に入られてから、実際に永平寺を運営していくための方法を著した清規類を確認していけば、様々な諸天・諸菩薩・諸神への信仰に始まり、諸行が綿密に行われる叢林像が浮かび上がる。ここに、いわゆるの純粋性は無い。しかし、それで何の問題も無い。むしろ、純粋性こそが宗教だと独断した方が、問題を抱えているのである。
こういう風に書くと、「清規類だけで全体を判断するな」とかいう意見も聞こえてきそうだが、『正法眼蔵』も「安居」巻には土地堂念誦が示されていて、その回向文は、修行者の修行の円滑なる成就を願う、現世利益的内容である。よって、実は、多くの皆さんが、その主著だと思っている『正法眼蔵』にも見えるのだから、結局は、従来の概論書が、余りに偏狭にまとめすぎていたというのが正しいのである。
また、概論書は、その文脈理解の問題もある。拙僧自身も、決してその誤謬から逃れられるわけではないから、ここにも自戒を込めて申し上げれば、或る文脈があったとして、その説明を著者が行う時、本当にそれが、元の文脈を構成した本人の意見を代表しているか分からないのである。この辺は、国語的問題ということにもなるのかもしれないが、ただ、現代文でも古文でも、試験であれば良い。一定の答えもある。だが、概論書は、その本人の宗教観などが反映される。よって、一例として、『道元の言葉』とか『親鸞の言葉』とか『ブッダの言葉』とか、そういう本があったとして、その内容が本当に合っているかどうかは分からないのである。
昔、「ゴータマ=ブッダは、墓を作るなと遺言した」と発言した「高名な仏教学者」がいたらしい。今やこれは、笑い話になっている。実際のところブッダは、自分の死後に、塔(ストゥーパ)を建てることを弟子達に説いた。この塔は、現在やや形を変えているけれども、東南アジアならば、「パゴダ」になっているし、日本なら「五重塔」や「卒塔婆」になっている。しかも、ブッダは自分自身のためだけではなく、仏道修行者に対しても、同じく塔を建てるように説いた(これらは全て南伝仏教の『マハーパリニッバーナ経』[北伝なら『遊行経』など]に見える)。これは、「墓」である。呼び方が変わっただけ。しかもブッダは、その塔に対して、様々な供物を捧げることで、良い功徳を積むように説いている。現在のお墓参りである。
そんな人が、「ブッダが葬儀をすることを否定した」などとも書く。これも、今では笑い話である。拙ブログでは、この点について【ブッダは出家者が葬祭に関わることを禁じたか?】という記事で私見を表明している。この意見に反論がある人は、その記事を読んでからにしていただこう。
結局、一時期は、仏教に於ける思想的・哲学的文脈のみを好んで論じた仏教学者がいたから、仏教もすっかり、思想的・哲学的営みだとばかり思われているけれども、北伝であっても、阿含経典を読めば、そのような思想性・哲学性ばかり重んじた様子はない(これすら、「ブッダの意志をねじ曲げた」とかいうわけだ・笑)。それどころか、世俗の人がそれまで続けていた様々な祭祀や儀礼についても、基本的に受け容れ、余程問題がある時に限って、修正したりした。この辺は【『善生経』(『六方礼経』)と父母の恩】でも考えたが、今の日本の仏教と同様に、としたブッダ周辺の宗教性が見えてくる。
さて、記事の本題に戻すが、要するに、概論書だけで分かったつもりになるのは、基本的に問題である。それは、間違っている可能性や、偏向している可能性に、自分で気付く能力を失ってしまうためである。結局、本気で学びたければ、基本的な典籍に眼を通すしかない。そして、柔軟に、ゆったりと、大らかに学んで、「これだけが正しい」とかいう「安易な結論」を求めるべきではないのだ。マニュアル社会、解答ありき問題への取り組み、それらを強いられている今の日本人には難しいかもしれないけどね。
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特に、疲れている時などは顕著かもしれない。
拙僧のブログの原動力は、何といっても、読む文献の量にあると思っている。たまたまそういう立場にいさせていただいているという事もあるので、一度に数十冊の本を読む。でも、その本も、疲れていると捗らない。よって、そういう時には、概論書などを引いてしまおうと思うのだ。まぁ、怠惰といえば怠惰である。とはいえ、やっぱりこれは良くない。
自戒を込めて申し上げるのだが、大概、概論書というのは、多くの文脈を手際よく参照できるように書かれているものだが、その中で、省略されてしまった文脈も多数ある。そして、それが、正当な理由で省略されているのならまだ我慢も出来るが、たまに、その作者の私見や、本人の思い込みなどによって省略されてしまう場合もある。例えば、近代仏教学全盛期に於いて書かれた日本仏教論の多くが、それであると断言してしまって良い。
専修念仏のような例もあるから微妙だとは思うが、しかし、総じて申し上げれば、日本の仏教というのは、「純粋性」「純一性」「絶対性」「普遍性」などとは「無縁」である。それどころか、「雑然性」「相対性」「特殊性」の集合というのが正しい。しかし、近代仏教学は、その不当なる思い込みで、前者こそが優れた宗教だと思い込み、日本仏教がまさにそれであると「弁証」しようとしたのである。
結果的に、道元禅師などは、専修思想に裏打ちされ、坐禅のみをやっていた人、という「誤ったイメージ」が植え付けられてしまった。しかし、晩年、永平寺に入られてから、実際に永平寺を運営していくための方法を著した清規類を確認していけば、様々な諸天・諸菩薩・諸神への信仰に始まり、諸行が綿密に行われる叢林像が浮かび上がる。ここに、いわゆるの純粋性は無い。しかし、それで何の問題も無い。むしろ、純粋性こそが宗教だと独断した方が、問題を抱えているのである。
こういう風に書くと、「清規類だけで全体を判断するな」とかいう意見も聞こえてきそうだが、『正法眼蔵』も「安居」巻には土地堂念誦が示されていて、その回向文は、修行者の修行の円滑なる成就を願う、現世利益的内容である。よって、実は、多くの皆さんが、その主著だと思っている『正法眼蔵』にも見えるのだから、結局は、従来の概論書が、余りに偏狭にまとめすぎていたというのが正しいのである。
また、概論書は、その文脈理解の問題もある。拙僧自身も、決してその誤謬から逃れられるわけではないから、ここにも自戒を込めて申し上げれば、或る文脈があったとして、その説明を著者が行う時、本当にそれが、元の文脈を構成した本人の意見を代表しているか分からないのである。この辺は、国語的問題ということにもなるのかもしれないが、ただ、現代文でも古文でも、試験であれば良い。一定の答えもある。だが、概論書は、その本人の宗教観などが反映される。よって、一例として、『道元の言葉』とか『親鸞の言葉』とか『ブッダの言葉』とか、そういう本があったとして、その内容が本当に合っているかどうかは分からないのである。
昔、「ゴータマ=ブッダは、墓を作るなと遺言した」と発言した「高名な仏教学者」がいたらしい。今やこれは、笑い話になっている。実際のところブッダは、自分の死後に、塔(ストゥーパ)を建てることを弟子達に説いた。この塔は、現在やや形を変えているけれども、東南アジアならば、「パゴダ」になっているし、日本なら「五重塔」や「卒塔婆」になっている。しかも、ブッダは自分自身のためだけではなく、仏道修行者に対しても、同じく塔を建てるように説いた(これらは全て南伝仏教の『マハーパリニッバーナ経』[北伝なら『遊行経』など]に見える)。これは、「墓」である。呼び方が変わっただけ。しかもブッダは、その塔に対して、様々な供物を捧げることで、良い功徳を積むように説いている。現在のお墓参りである。
そんな人が、「ブッダが葬儀をすることを否定した」などとも書く。これも、今では笑い話である。拙ブログでは、この点について【ブッダは出家者が葬祭に関わることを禁じたか?】という記事で私見を表明している。この意見に反論がある人は、その記事を読んでからにしていただこう。
結局、一時期は、仏教に於ける思想的・哲学的文脈のみを好んで論じた仏教学者がいたから、仏教もすっかり、思想的・哲学的営みだとばかり思われているけれども、北伝であっても、阿含経典を読めば、そのような思想性・哲学性ばかり重んじた様子はない(これすら、「ブッダの意志をねじ曲げた」とかいうわけだ・笑)。それどころか、世俗の人がそれまで続けていた様々な祭祀や儀礼についても、基本的に受け容れ、余程問題がある時に限って、修正したりした。この辺は【『善生経』(『六方礼経』)と父母の恩】でも考えたが、今の日本の仏教と同様に、としたブッダ周辺の宗教性が見えてくる。
さて、記事の本題に戻すが、要するに、概論書だけで分かったつもりになるのは、基本的に問題である。それは、間違っている可能性や、偏向している可能性に、自分で気付く能力を失ってしまうためである。結局、本気で学びたければ、基本的な典籍に眼を通すしかない。そして、柔軟に、ゆったりと、大らかに学んで、「これだけが正しい」とかいう「安易な結論」を求めるべきではないのだ。マニュアル社会、解答ありき問題への取り組み、それらを強いられている今の日本人には難しいかもしれないけどね。
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