今日からお彼岸に向けての遠征を開始しますので、更新できない可能性を鑑み、明日、明後日の分は予約投稿していきます。
今日の本題である。昨年、現代語訳された『高僧伝』、岩波文庫から刊行された(吉川忠夫・船山徹訳、全4巻)。それに因んで、西洋古典学を専門としている中務哲郎氏が「非家の読む『高僧伝』」という一文を、岩波書店『図書』(2011年3月号)に寄稿していた。同氏は、現代語訳『高僧伝』が出たことを祝して、このように述べている。
私がこの邦訳を待望していたのは、一つには高僧の入寂のさまを窺いたかったから、一つには初期の仏典漢訳者たちの苦労を知ることにより、ギリシア・ラテンの文献を後世に伝えた先人の努力を偲べぬかと思ったからである。
28頁
確かに、高僧の入寂の様子というのは、それぞれに荘厳な説話になりうるほどである。とはいえ、いわゆる普通の人のように、死を嫌って取り乱したりして、という意味でのドラマ的記述は見えない。ほとんどが端然と死に臨むのだが、その様子が、何とも不思議な荘厳さを生んでいるのである。ところで、中務氏は、合わせて訳経僧達の様子も気に掛けておられたようだが、その中で、曇無讖が従兄弟が王によって誅殺された後、王の命を破ってその遺体を埋葬した話を受けて、これがソポクレスの悲劇『アンティゴネ』を思い出させるとしている。同氏によれば、こういうことは「読書の余恵」ということなのだが、拙僧もこの意味での余恵は、仏教説話に親しむ方法として、有力だろうと思っている。
拙僧はこのブログを始めてからというもの、仏教説話に大いに感化された。その理由だが、ただ思想的な内容を学ぶだけであれば、説話は不要かもしれないが、その当時の風俗・風習、そして、なんといっても、説話はそのまま、布教教化に使えてしまうのである。拙ブログでは、常に連載記事として、鎌倉時代の臨済宗聖一派、無住道曉禅師『沙石集』を採り上げているし、合わせて、江戸時代の曹洞宗、面山瑞方禅師が本師・損翁宗益禅師の言行を記録した『見聞宝永記』を採り上げている。更には、休載中ということにしているが、『日本往生極楽記』『日本法華驗記』といった、念仏信仰や法華信仰の古例なども採り上げたこともあった。
これらはつまり、説話を通して、そこに込められた状況を多角的に見ることによって、どうしても、思想史的な研究に陥りがちな自分自身に対して一定の制約を課したのである。ただ、おかげで、逆に身心を自ら用いて行う修行に於ける、菩提心の退転への恐怖を緩和するための信仰や、禅宗に於ける兜率往生などを含む諸信仰などを見出すことも出来た。つまり、ただの思想研究を超えて、当時の僧侶が当時の社会とどのように接しているかを探るのに、説話の研究派良いのである。
そして、『高僧伝』も同様だし、その後陸続として刊行された僧伝類は、それ自体が説話の宝庫である。人の生き方を述べるだけでは、説話にはならないが、「僧(比丘)」という特殊な立場が、生き方をして自然と特殊ならしめるといえる。よって、奇妙なことばかりが続くようなドラマ性はないが、ただの記録が十分なドラマとなる。それが面白い。
これまで、『高僧伝』といえば、以下のような話が有名だったことから、我々僧侶にとっての、「ロールモデル」を探るための文献とばかり考えていた。
因ミニ高僧伝、続高僧伝等を披見せしに、大国の高僧、仏法者のやうを見しに、今の師の教へのごとクにはあらず。また我がおこせる心は、皆経論伝記等には厭ひ悪みきらへる心にて有りけりと思フより、漸く心つきて思フに、道理をかんがふれば、名聞を思フとも当代下劣の人によしと思はれんよりも、上古の賢者、向後の善人を恥ヅベシ。ひとしからん事を思フとも、こノ国の人よりも唐土天竺の先達高僧を恥ヅベシ。かれにひとしからんと思フべし。
『正法眼蔵随聞記』巻5-7
道元禅師が自らの修行中の様子を伝えた一節である。天台宗で学んでいる頃、指導してくれた僧からは、国の上層部に認められるのが良い僧侶だと教えられたという。自分でもその気でいたが、或る時、『高僧伝』『続高僧伝』などを見ていると、どうもそれにて紹介される「高僧」は、自分の考え方、生き方とは違っている。そして、同じ時代の僧侶に認められることを願うよりは、その高僧達に恥じない生き方をした方が良いと考えるようになった。高僧を自らのロールモデルにしたのである。拙僧も、そういう参照の仕方はあると思っていて、結構堅苦しく『高僧伝』などを読んでいたのだが、昨今の新しい現代語訳のおかげもあってか感情移入しやすく、その物語を扱うことが出来るようになった。
これは、僧伝類の新たな可能性なのであろう。無論、とっくにそんなことに気付いている研究者・求道者も多いと思うのだが、拙僧には新鮮であった。
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今日の本題である。昨年、現代語訳された『高僧伝』、岩波文庫から刊行された(吉川忠夫・船山徹訳、全4巻)。それに因んで、西洋古典学を専門としている中務哲郎氏が「非家の読む『高僧伝』」という一文を、岩波書店『図書』(2011年3月号)に寄稿していた。同氏は、現代語訳『高僧伝』が出たことを祝して、このように述べている。
私がこの邦訳を待望していたのは、一つには高僧の入寂のさまを窺いたかったから、一つには初期の仏典漢訳者たちの苦労を知ることにより、ギリシア・ラテンの文献を後世に伝えた先人の努力を偲べぬかと思ったからである。
28頁
確かに、高僧の入寂の様子というのは、それぞれに荘厳な説話になりうるほどである。とはいえ、いわゆる普通の人のように、死を嫌って取り乱したりして、という意味でのドラマ的記述は見えない。ほとんどが端然と死に臨むのだが、その様子が、何とも不思議な荘厳さを生んでいるのである。ところで、中務氏は、合わせて訳経僧達の様子も気に掛けておられたようだが、その中で、曇無讖が従兄弟が王によって誅殺された後、王の命を破ってその遺体を埋葬した話を受けて、これがソポクレスの悲劇『アンティゴネ』を思い出させるとしている。同氏によれば、こういうことは「読書の余恵」ということなのだが、拙僧もこの意味での余恵は、仏教説話に親しむ方法として、有力だろうと思っている。
拙僧はこのブログを始めてからというもの、仏教説話に大いに感化された。その理由だが、ただ思想的な内容を学ぶだけであれば、説話は不要かもしれないが、その当時の風俗・風習、そして、なんといっても、説話はそのまま、布教教化に使えてしまうのである。拙ブログでは、常に連載記事として、鎌倉時代の臨済宗聖一派、無住道曉禅師『沙石集』を採り上げているし、合わせて、江戸時代の曹洞宗、面山瑞方禅師が本師・損翁宗益禅師の言行を記録した『見聞宝永記』を採り上げている。更には、休載中ということにしているが、『日本往生極楽記』『日本法華驗記』といった、念仏信仰や法華信仰の古例なども採り上げたこともあった。
これらはつまり、説話を通して、そこに込められた状況を多角的に見ることによって、どうしても、思想史的な研究に陥りがちな自分自身に対して一定の制約を課したのである。ただ、おかげで、逆に身心を自ら用いて行う修行に於ける、菩提心の退転への恐怖を緩和するための信仰や、禅宗に於ける兜率往生などを含む諸信仰などを見出すことも出来た。つまり、ただの思想研究を超えて、当時の僧侶が当時の社会とどのように接しているかを探るのに、説話の研究派良いのである。
そして、『高僧伝』も同様だし、その後陸続として刊行された僧伝類は、それ自体が説話の宝庫である。人の生き方を述べるだけでは、説話にはならないが、「僧(比丘)」という特殊な立場が、生き方をして自然と特殊ならしめるといえる。よって、奇妙なことばかりが続くようなドラマ性はないが、ただの記録が十分なドラマとなる。それが面白い。
これまで、『高僧伝』といえば、以下のような話が有名だったことから、我々僧侶にとっての、「ロールモデル」を探るための文献とばかり考えていた。
因ミニ高僧伝、続高僧伝等を披見せしに、大国の高僧、仏法者のやうを見しに、今の師の教へのごとクにはあらず。また我がおこせる心は、皆経論伝記等には厭ひ悪みきらへる心にて有りけりと思フより、漸く心つきて思フに、道理をかんがふれば、名聞を思フとも当代下劣の人によしと思はれんよりも、上古の賢者、向後の善人を恥ヅベシ。ひとしからん事を思フとも、こノ国の人よりも唐土天竺の先達高僧を恥ヅベシ。かれにひとしからんと思フべし。
『正法眼蔵随聞記』巻5-7
道元禅師が自らの修行中の様子を伝えた一節である。天台宗で学んでいる頃、指導してくれた僧からは、国の上層部に認められるのが良い僧侶だと教えられたという。自分でもその気でいたが、或る時、『高僧伝』『続高僧伝』などを見ていると、どうもそれにて紹介される「高僧」は、自分の考え方、生き方とは違っている。そして、同じ時代の僧侶に認められることを願うよりは、その高僧達に恥じない生き方をした方が良いと考えるようになった。高僧を自らのロールモデルにしたのである。拙僧も、そういう参照の仕方はあると思っていて、結構堅苦しく『高僧伝』などを読んでいたのだが、昨今の新しい現代語訳のおかげもあってか感情移入しやすく、その物語を扱うことが出来るようになった。
これは、僧伝類の新たな可能性なのであろう。無論、とっくにそんなことに気付いている研究者・求道者も多いと思うのだが、拙僧には新鮮であった。
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