今日は10月1日です。旧暦なら「開炉の日」という事で、今日からストーブに相当する炉(といっても、そんなには暖まらない)に、火を入れることになります。かつての禅僧は、その開炉ということと、火の様子を題材に、上堂にて法の道理を示しました。今日はそんな1つを紹介していきます。
開炉の上堂。
今朝吉祥紅炉開く、達磨の眼睛抉出し来る。
縦え歳をして寒からしむるとも何ぞ比を欲う、一華五葉雪の中に梅。
『永平広録』巻5-396上堂
道元禅師は、開炉の上堂を行うと、「今朝、この吉祥山の紅炉を開いた」と宣言されましたが、その内容がいきなり、「達磨の目玉をくり抜いたのだ」とかいっています。
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こんな感じでしょうか?これは、群馬県高崎市内で購入した、達磨根付けです。
そこでつまり、紅炉中に、仏祖が嫡嫡相承してきた大法の肝心なところがあるから、能く参究せよ、ということであります。そして、たとえ、年間の中で、この時期から寒いといっても、一体何と(暑さ寒さを)比べようか、といっています。
この寒さとは、或る道理を開示するのです。それが、一華五葉の道理であり、更に、雪裏の梅華もまた示されています。「一華五葉」とは、道元禅師に言わせれば、達磨大師の法が五代繋がった意味、ではなくて、ただの華の形だとしています。それはつまり、梅の華ということですが、それが雪の中に咲いています。雪というのは、もう、白一面の世界ですが、同時にそれは、仏陀の活き活きした悟りが死に絶えた場所でもあるのです。
しかし、その死に絶えた中にも、梅の華(=仏陀の悟り)が咲いている、要は、我々に具わる仏心、仏性を信ぜよと道元禅師は仰っているわけです。こういうと、またぞろ、『正法眼蔵』「仏性」巻を持ち出して、「道元禅師の仏性とは、成仏への可能性、という意味ではない」という人がいるかもしれません。それは、75巻本『正法眼蔵』というのが、そういう「可能性」とかいう状況を、「既にあり得ている」証上へと昇華するように説くのであって、道元禅師はちゃんと、『正法眼蔵随聞記』巻2では、「人々皆仏性有ルなり。徒らに卑下する事なかれ」として、「成仏可能性としての仏性」を説いています。
今時、もう、『正法眼蔵』を読んだくらいで、道元禅師を分かった気になるような人はいないと思います。正しく『永平広録』が参究されねばなりません。ところで、「炉中の参究」について有名な百丈懐海禅師の妙手を学んでおきましょう。
大潙、百丈に在って典座と作る。一日、方丈に上って侍立す。
百丈問う、「阿誰ぞ」。
山曰く、「霊祐」。
百丈云く、「汝、炉中を撥け、火、有るや否や」。
師、撥して云く、「火、無し」。
百丈、躬起して、深く撥いて少火を得る、挙げて以て之を示して云く、「此れは是れ火に不ざるや」。
師、発悟して礼謝し、其の所解を陳ぶ。
『永平寺知事清規』
この一段、出典は『宗門統要集』巻4(とはいえ、内容は相違)のようですが、このように、百丈懐海禅師は自らの下で典座を勤めていた潙山霊祐禅師を、炉と火を使って諭したわけです。この後、百丈禅師からは、仏性についての説示が続きますので、この「火」とは仏性を指すと考えて良く、また炉の中に在る灰は、まさに我々凡夫を意味しているわけです。凡夫が多少の参究をしたくらいで、仏性は見えない、深く、諦めずに参究することで、仏性を見ることが可能だと示しているわけです。「雪裏の梅華」も同じことを意味します。
炉からのちょっとした暖気がありがたく感じられるほど、寒い僧堂での坐禅弁道ですが、その中にも、仏陀の悟りとしての華は息づき、今か今かと開花を待ち望んでいるわけです。我々自身、こういう教えを見るに付け、諦めずに学んでみようと、道心(志)を新たにする機会になるわけです。本当に有り難いことです。ただ、今日はまだ暖かいので、あくまでも11月過ぎたら実感できることでしょう。今は、11月が開炉ですしね。この辺、旧暦と新暦の違いによって、禅語録の色々な記録を理解するのがめんどくさい。
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開炉の上堂。
今朝吉祥紅炉開く、達磨の眼睛抉出し来る。
縦え歳をして寒からしむるとも何ぞ比を欲う、一華五葉雪の中に梅。
『永平広録』巻5-396上堂
道元禅師は、開炉の上堂を行うと、「今朝、この吉祥山の紅炉を開いた」と宣言されましたが、その内容がいきなり、「達磨の目玉をくり抜いたのだ」とかいっています。

こんな感じでしょうか?これは、群馬県高崎市内で購入した、達磨根付けです。
そこでつまり、紅炉中に、仏祖が嫡嫡相承してきた大法の肝心なところがあるから、能く参究せよ、ということであります。そして、たとえ、年間の中で、この時期から寒いといっても、一体何と(暑さ寒さを)比べようか、といっています。
この寒さとは、或る道理を開示するのです。それが、一華五葉の道理であり、更に、雪裏の梅華もまた示されています。「一華五葉」とは、道元禅師に言わせれば、達磨大師の法が五代繋がった意味、ではなくて、ただの華の形だとしています。それはつまり、梅の華ということですが、それが雪の中に咲いています。雪というのは、もう、白一面の世界ですが、同時にそれは、仏陀の活き活きした悟りが死に絶えた場所でもあるのです。
しかし、その死に絶えた中にも、梅の華(=仏陀の悟り)が咲いている、要は、我々に具わる仏心、仏性を信ぜよと道元禅師は仰っているわけです。こういうと、またぞろ、『正法眼蔵』「仏性」巻を持ち出して、「道元禅師の仏性とは、成仏への可能性、という意味ではない」という人がいるかもしれません。それは、75巻本『正法眼蔵』というのが、そういう「可能性」とかいう状況を、「既にあり得ている」証上へと昇華するように説くのであって、道元禅師はちゃんと、『正法眼蔵随聞記』巻2では、「人々皆仏性有ルなり。徒らに卑下する事なかれ」として、「成仏可能性としての仏性」を説いています。
今時、もう、『正法眼蔵』を読んだくらいで、道元禅師を分かった気になるような人はいないと思います。正しく『永平広録』が参究されねばなりません。ところで、「炉中の参究」について有名な百丈懐海禅師の妙手を学んでおきましょう。
大潙、百丈に在って典座と作る。一日、方丈に上って侍立す。
百丈問う、「阿誰ぞ」。
山曰く、「霊祐」。
百丈云く、「汝、炉中を撥け、火、有るや否や」。
師、撥して云く、「火、無し」。
百丈、躬起して、深く撥いて少火を得る、挙げて以て之を示して云く、「此れは是れ火に不ざるや」。
師、発悟して礼謝し、其の所解を陳ぶ。
『永平寺知事清規』
この一段、出典は『宗門統要集』巻4(とはいえ、内容は相違)のようですが、このように、百丈懐海禅師は自らの下で典座を勤めていた潙山霊祐禅師を、炉と火を使って諭したわけです。この後、百丈禅師からは、仏性についての説示が続きますので、この「火」とは仏性を指すと考えて良く、また炉の中に在る灰は、まさに我々凡夫を意味しているわけです。凡夫が多少の参究をしたくらいで、仏性は見えない、深く、諦めずに参究することで、仏性を見ることが可能だと示しているわけです。「雪裏の梅華」も同じことを意味します。
炉からのちょっとした暖気がありがたく感じられるほど、寒い僧堂での坐禅弁道ですが、その中にも、仏陀の悟りとしての華は息づき、今か今かと開花を待ち望んでいるわけです。我々自身、こういう教えを見るに付け、諦めずに学んでみようと、道心(志)を新たにする機会になるわけです。本当に有り難いことです。ただ、今日はまだ暖かいので、あくまでも11月過ぎたら実感できることでしょう。今は、11月が開炉ですしね。この辺、旧暦と新暦の違いによって、禅語録の色々な記録を理解するのがめんどくさい。
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