道元禅師は寺院建立について、『梵網経』などから一定の功徳を認めつつ、その上で寺院が何処までも存続することを望んでいるわけでは無かったように思われる。それは、例えば、『当山尽未来際置文』などを残した瑩山紹瑾禅師とは状況が異なるけれども、それは両祖が置かれた時代的状況の違いも見ていくべきで、どちらが良いとか悪いとかいう問題では無い(何故か、そういう議論をする人が多いけど)。
さて、道元禅師が寺院の生残について参照したと思われるのが栄西禅師である。
またある時、僧正の門弟の僧云ク、「今の建仁寺の寺敷河原に近し。後代に水難有リぬべシ。」
僧正云ク、「我等後代の亡失こレヲ思フベカラず。西天の祇園精舎も礎計留れりしかども、寺院建立の功徳失スベカラず。また当時一年半年の行道、そノ功莫大なるべし。」ト。
今これヲ思ふに、寺院の建立ハ実に一期の大事なれば、未来際をも兼ネて難無キやうにとこそ思フべけれども、さる心中にも、是ノごとキ道理を存ゼらレシ心のたけ、実ニこれヲ思フベシ。
『正法眼蔵随聞記』巻3-2
東山にある建仁寺は、鴨川に近く、それを憂えた栄西禅師(用祥僧正)の門弟が、「後々水難があるのでは?」と訴えたわけである。ところが、それに対して栄西禅師は、我々は後々に失われること思ってはならない、インドの祇園精舎も、礎ばかりになってしまっているけれども寺院建立の功徳は失われていない、当時行われた半年・1年の修行の功徳は、莫大なのである、と述べた。
道元禅師はそれを受けて、寺院の建立は、一生の間の大事なことであるから、未来のことも考えて、難事が起きないことを願うが、心中に難事にすら任す思いを持っておられた人もいた、と仰っているわけである。
なお、建仁寺は戦乱や火災による焼失により創建当初の建物は残っていないが、水難には襲われなかったようである。その意味では、栄西禅師の見解と、門弟の見解の間のような状況だが、問題はこの功徳の置き所を何処にするかという話かと思う。普通に考えれば、具体的に、伽藍などの建造物が残ることや、伝統が存続することばかりを望んでしまうけれども、仏教に於ける功徳というのは、そういう次元でのみ語られることでは無いと思う。
ここで、栄西禅師が述べているように、かつて修行されていたという事実自体が功徳を生み、我々の礼拝や追慕(慕古)の対象となる。今の我々も、そのような「遺跡」を巡拝するのは、今現存するからではなく、かつて、一時であっても修行が行われていたことを讃歎するためである。
屋裏に正伝しいはく、八塔を礼拝するものは、罪障解脱し、道果感得す。これ釈迦牟尼仏の道現成処を、生処に建立し、転法輪処に建立し、成道処に建立し、涅槃処に建立し、曲女城辺にのこり、菴羅衛林にのこれる、大地を成じ、大空を成ぜり。乃至、声香味触法色処等に塔成せるを礼拝するによりて、道果現成す。
この八塔を礼拝するを、西天竺国のあまねき勤修として、在家・出家、天衆人衆、きほふて礼拝供養するなり。これすなはち一巻の経典なり。仏経はかくのごとし。いはんやまた、三十七品の法を修行して、道果を箇箇生生に成就するは、釈迦牟尼仏の亘古亘今の修行修治の蹤跡を、処処の古路に流布せしめて、古今に歴然せるがゆえに成道す。
『正法眼蔵』「面授」巻
道元禅師は、仏陀の蹤跡を伝える八塔を礼拝する人は罪障から解脱し、仏果を感得するという。インドでは、在家も出家も、或いは人間界に限らず天上界の生きる者達も、みな礼拝し供養するという。更に、三十七品菩提分法の修行を行う場合には、釈迦牟尼仏が古今に亘って行うべきだとした修行の跡を、流布させて、歴然たる状況にさせたため、成道するという。よって、遺跡がただ遺跡として残るか否かということの他に、後の人が礼拝することをもって、成道への縁となるのである。これを以て功徳という。功徳は何もせずに功徳となるのではない。やはり行に依って功徳となるのである。寺院とは、そのために必要だといえる。ただの集会所なのではない。仏道が修行された事実が重要なのだ。
かつて、寺院が盛り場のようではなく、ただの「風景だ」と評した者もいたが、その評は全く無意味であり、不当である。風景にしてしまっているのは、結局は世俗的価値観に於ける「隆盛」をいたずらに寺院に当て嵌める者の不見識である。実際には自ら礼拝すれば良いのである。それが功徳となる。この風景だと評した者は、その後道を誤ったと聞く。そこで礼拝できていれば、果たしてどうだったのだろうか?拙僧はいつもそれを思う。
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またある時、僧正の門弟の僧云ク、「今の建仁寺の寺敷河原に近し。後代に水難有リぬべシ。」
僧正云ク、「我等後代の亡失こレヲ思フベカラず。西天の祇園精舎も礎計留れりしかども、寺院建立の功徳失スベカラず。また当時一年半年の行道、そノ功莫大なるべし。」ト。
今これヲ思ふに、寺院の建立ハ実に一期の大事なれば、未来際をも兼ネて難無キやうにとこそ思フべけれども、さる心中にも、是ノごとキ道理を存ゼらレシ心のたけ、実ニこれヲ思フベシ。
『正法眼蔵随聞記』巻3-2
東山にある建仁寺は、鴨川に近く、それを憂えた栄西禅師(用祥僧正)の門弟が、「後々水難があるのでは?」と訴えたわけである。ところが、それに対して栄西禅師は、我々は後々に失われること思ってはならない、インドの祇園精舎も、礎ばかりになってしまっているけれども寺院建立の功徳は失われていない、当時行われた半年・1年の修行の功徳は、莫大なのである、と述べた。
道元禅師はそれを受けて、寺院の建立は、一生の間の大事なことであるから、未来のことも考えて、難事が起きないことを願うが、心中に難事にすら任す思いを持っておられた人もいた、と仰っているわけである。
なお、建仁寺は戦乱や火災による焼失により創建当初の建物は残っていないが、水難には襲われなかったようである。その意味では、栄西禅師の見解と、門弟の見解の間のような状況だが、問題はこの功徳の置き所を何処にするかという話かと思う。普通に考えれば、具体的に、伽藍などの建造物が残ることや、伝統が存続することばかりを望んでしまうけれども、仏教に於ける功徳というのは、そういう次元でのみ語られることでは無いと思う。
ここで、栄西禅師が述べているように、かつて修行されていたという事実自体が功徳を生み、我々の礼拝や追慕(慕古)の対象となる。今の我々も、そのような「遺跡」を巡拝するのは、今現存するからではなく、かつて、一時であっても修行が行われていたことを讃歎するためである。
屋裏に正伝しいはく、八塔を礼拝するものは、罪障解脱し、道果感得す。これ釈迦牟尼仏の道現成処を、生処に建立し、転法輪処に建立し、成道処に建立し、涅槃処に建立し、曲女城辺にのこり、菴羅衛林にのこれる、大地を成じ、大空を成ぜり。乃至、声香味触法色処等に塔成せるを礼拝するによりて、道果現成す。
この八塔を礼拝するを、西天竺国のあまねき勤修として、在家・出家、天衆人衆、きほふて礼拝供養するなり。これすなはち一巻の経典なり。仏経はかくのごとし。いはんやまた、三十七品の法を修行して、道果を箇箇生生に成就するは、釈迦牟尼仏の亘古亘今の修行修治の蹤跡を、処処の古路に流布せしめて、古今に歴然せるがゆえに成道す。
『正法眼蔵』「面授」巻
道元禅師は、仏陀の蹤跡を伝える八塔を礼拝する人は罪障から解脱し、仏果を感得するという。インドでは、在家も出家も、或いは人間界に限らず天上界の生きる者達も、みな礼拝し供養するという。更に、三十七品菩提分法の修行を行う場合には、釈迦牟尼仏が古今に亘って行うべきだとした修行の跡を、流布させて、歴然たる状況にさせたため、成道するという。よって、遺跡がただ遺跡として残るか否かということの他に、後の人が礼拝することをもって、成道への縁となるのである。これを以て功徳という。功徳は何もせずに功徳となるのではない。やはり行に依って功徳となるのである。寺院とは、そのために必要だといえる。ただの集会所なのではない。仏道が修行された事実が重要なのだ。
かつて、寺院が盛り場のようではなく、ただの「風景だ」と評した者もいたが、その評は全く無意味であり、不当である。風景にしてしまっているのは、結局は世俗的価値観に於ける「隆盛」をいたずらに寺院に当て嵌める者の不見識である。実際には自ら礼拝すれば良いのである。それが功徳となる。この風景だと評した者は、その後道を誤ったと聞く。そこで礼拝できていれば、果たしてどうだったのだろうか?拙僧はいつもそれを思う。
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