今の我々は、「経を読む」という場合、儀式の中では折り本を用いる場合がほとんどであり、自分で学ぶ場合には冊子本、または洋本、または電子端末上でしょう。しかし、かつてはどうであったのか?以下の一文をご覧いただきたいと思います。
巻を還すの法は、緊なれば則ち経を損し、慢なれば則ち斉しからず。
『禅苑清規』巻3「蔵主」項
「蔵主」というのは、経蔵の管理者のことであり、僧侶でありながら、図書管理をする司書のような役割の人です。その項目に、経を読む、看読の方法が書いてあります。特に気を付けているのが、経巻の取り扱いについてです。「経巻」というだけあって、当時の経は「巻物」に書かれていました。ただ、この時代の後、折り本も出て来るので、その場合には、それに相応しい方法も出来たでしょうが、この時代はまだ巻物が一般的だったようです。
なお、この経巻は、函(箱)などに入っていました。
経は、或は経函ながら行じ、或は盤子に安じて行ず。
『正法眼蔵』「看経」巻
この函ですが、その中に入っている経巻の取り扱いにも注意が必要でした。
函を開くの法は、両手を上の蓋を捉えて、左を仰ぎ右を俯せて手を交えてこれを取って軽く案上に放く。声、あらしめざれ。函を蓋うの法は、右を仰ぎ左を俯せて手を交えてこれを合わす。また須く低細にすべし。経を開き、帯を摺み、巻を還し、條を繋ぐこと、おのおの儀式あり。堂中の看経の首座および慣熟の人に請問すべし。
『禅苑清規』同上
要するに、函の開け閉めなどは、非常に丁寧に行われなくてはならず、余計な音などを立ててもならないとされているわけです。音を立てないということは、ただ神経質になっているのではなくて、それは余計な物理的衝撃を軽減することで、物持ちを良くするためです。乱暴に扱えば、大勢の修行僧を養っている中国の禅林で、あっという間に経本も函も損なわれてしまいます。そうなれば、幾ら費用があっても足りません。
なお、文中に堂中の看経の首座という言葉が出ていますが、これは、「看経堂首座」と呼ばれた役職のようで、この人もまた、経蔵及び、経を読むための場所の管理者で、部屋の貸し出しなどをしていたようです。今でいえば、受付ですな。受付であり、同時に、経巻や函の取り扱いも詳しかったということでしょう。また、今とは「識字率」が違う当時のことですので、やはり、経を読むという事も出来ない場合があった可能性を考えてみなくてはなりません。なお、言葉が全く理解できないような場合には、出家できない(仏陀が定めた規則にそのようにある)のですが、自分で学ぶ方法も書いてあります。
もし字を識らざれば先ず篇韻を檢し、なお疑わしきことあらば方に借問すべし。
『禅苑清規』同上
字を識らない場合、最初に「篇韻」を調べるように説かれています。「篇韻」というのは、「部首別漢字字典(=篇)」と「漢字を韻による分類をした書物(=韻)」の総称で、つまり今で言うところの、「漢和辞典」と言うことです。当時、そういう辞書が僧侶達の手元にもあったようなのです。ただ、本当に文字が読めない人は、こういう辞書を読むのも大変でしょうから、どうしても、「借問」ということで、誰か(看経堂首座など)に問い合わせすることになります。ただ、質問のし過ぎは注意です。
字を問うこと、もし繁ければ看転を妨ぐることあり。
『禅苑清規』同上
余りに問い合わせが多いと、看経・転経を妨げてしまうので、要注意なわけです。でも、こういうところをしっかりとやっておかないと、【無住道曉『沙石集』の紹介(9f)】のようになってしまうので、文字は文字として学んでおく必要があるでしょう。
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巻を還すの法は、緊なれば則ち経を損し、慢なれば則ち斉しからず。
『禅苑清規』巻3「蔵主」項
「蔵主」というのは、経蔵の管理者のことであり、僧侶でありながら、図書管理をする司書のような役割の人です。その項目に、経を読む、看読の方法が書いてあります。特に気を付けているのが、経巻の取り扱いについてです。「経巻」というだけあって、当時の経は「巻物」に書かれていました。ただ、この時代の後、折り本も出て来るので、その場合には、それに相応しい方法も出来たでしょうが、この時代はまだ巻物が一般的だったようです。
なお、この経巻は、函(箱)などに入っていました。
経は、或は経函ながら行じ、或は盤子に安じて行ず。
『正法眼蔵』「看経」巻
この函ですが、その中に入っている経巻の取り扱いにも注意が必要でした。
函を開くの法は、両手を上の蓋を捉えて、左を仰ぎ右を俯せて手を交えてこれを取って軽く案上に放く。声、あらしめざれ。函を蓋うの法は、右を仰ぎ左を俯せて手を交えてこれを合わす。また須く低細にすべし。経を開き、帯を摺み、巻を還し、條を繋ぐこと、おのおの儀式あり。堂中の看経の首座および慣熟の人に請問すべし。
『禅苑清規』同上
要するに、函の開け閉めなどは、非常に丁寧に行われなくてはならず、余計な音などを立ててもならないとされているわけです。音を立てないということは、ただ神経質になっているのではなくて、それは余計な物理的衝撃を軽減することで、物持ちを良くするためです。乱暴に扱えば、大勢の修行僧を養っている中国の禅林で、あっという間に経本も函も損なわれてしまいます。そうなれば、幾ら費用があっても足りません。
なお、文中に堂中の看経の首座という言葉が出ていますが、これは、「看経堂首座」と呼ばれた役職のようで、この人もまた、経蔵及び、経を読むための場所の管理者で、部屋の貸し出しなどをしていたようです。今でいえば、受付ですな。受付であり、同時に、経巻や函の取り扱いも詳しかったということでしょう。また、今とは「識字率」が違う当時のことですので、やはり、経を読むという事も出来ない場合があった可能性を考えてみなくてはなりません。なお、言葉が全く理解できないような場合には、出家できない(仏陀が定めた規則にそのようにある)のですが、自分で学ぶ方法も書いてあります。
もし字を識らざれば先ず篇韻を檢し、なお疑わしきことあらば方に借問すべし。
『禅苑清規』同上
字を識らない場合、最初に「篇韻」を調べるように説かれています。「篇韻」というのは、「部首別漢字字典(=篇)」と「漢字を韻による分類をした書物(=韻)」の総称で、つまり今で言うところの、「漢和辞典」と言うことです。当時、そういう辞書が僧侶達の手元にもあったようなのです。ただ、本当に文字が読めない人は、こういう辞書を読むのも大変でしょうから、どうしても、「借問」ということで、誰か(看経堂首座など)に問い合わせすることになります。ただ、質問のし過ぎは注意です。
字を問うこと、もし繁ければ看転を妨ぐることあり。
『禅苑清規』同上
余りに問い合わせが多いと、看経・転経を妨げてしまうので、要注意なわけです。でも、こういうところをしっかりとやっておかないと、【無住道曉『沙石集』の紹介(9f)】のようになってしまうので、文字は文字として学んでおく必要があるでしょう。
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