今日、11月1日は、「ワンワンワン」というので、「犬の日」だとされています。で、毎年では無いですけど、気付いた時には、「犬の日」に因んだ記事をアップするようにしていまして、一昨年も【「犬の日」と禅問答(3)】というのを書きました。禅宗というか、禅問答で「犬」が出てくるものというと、我々、忘れられないのが「趙州狗子仏性」です。え、ここの何処に「犬」が?と思った方、大丈夫です。安心してください。道元禅師が、こんなことを書いてくださっています。
狗子とはいぬなり。
『正法眼蔵』「仏性」巻
とても分かり易くて、もう疑いようも無い一文です。狗子とは犬のことです。同じような文脈に、「獼猴といふは、さる、なり」(同「古鏡」巻)というのもあります。いきなり中国語で書かれても分からないだろうという修行者に向けて示された、道元禅師の慈悲深い愛語であります。この調子で、公案が解説されていますので、児孫たる我々、理解できないはずがありません・・・スミマセン、分かりません(涙)公案もそうですが、道元禅師の解説も分かりません。
それにしても、「犬」というと、まぁ、様々なメタファーにもなるわけですが、やはりその「吠える」或いは「吠えてうるさい」というイメージがあるようで、例えばこんな公案もあります。
投子青和尚、大陽に執侍すること三年。大陽、一日、師に問うて曰く「外道仏に問う『不問有言、不問無言』と。世尊、良久する如何」。
青対えんと擬す。陽、青の口を掩う。青、了然として開悟し、便乃、礼拝す。
陽曰く「汝、玄機を妙悟すや」。
青曰く「設い有りとも、也、須く吐却すべし」。
時に資侍者、旁らに立ちて曰く「青華厳、今日、病の汗を得たるが如し」。
青、回顧して曰く「狗口を合取せよ」。
『永平広録』巻9−頌古33
大陽警玄禅師と、その法嗣である投子義青禅師とで行われた「外道問仏」の問答です(あ、本当は大陽では無くて浮山法遠だったというのですが、その辺は論じると、論文みたくなるので割愛。一応、実世界での拙僧の専門はその辺です)。で、この問答は、仏道以外の教えを信奉している者が、世尊に対して、言葉で言い表せない真理を尋ねた際、世尊は黙っていたわけですが、そのことを問われた義青禅師が何か言葉で答えようとした際に、師匠はその口を掩って、これでもってその奥深い真理に会させたわけであります。
そして、大悟した義青禅師は全身汗が流れる様子だったようですが、この問答を傍らで聞いていた「資侍者」という人が、余計なことに、その汗を指摘したところ、義青禅師は「狗口を合取せよ」と言い切ったのであります。現代語訳すれば、「その犬の口を閉じよ」ということになります。うるさいから黙れ、ということですね。こういう文脈を知っていると、同じような表現があることに気付きます。
又、西天の祖師、おほく外道・二乗・国王等のためにやぶられたるを。これ外道の、すぐれたるにあらず、祖師に、遠慮なきにあらず。
初祖西来よりのち、嵩山に掛錫するに、粱武もしらず、魏主もしらず。
ときに両箇のいぬあり、いはゆる、菩提流支三蔵と光統律師となり。虚名邪利の、正人にふさがれんことをおそりて、あふぎて天日をくらまさんと擬するがごとくなりき。在世の達多よりもなほはなはだし。あはれむべし、なんぢが深愛する名利は、祖師これを糞穢よりもいとふなり。かくのごとくの道理、仏法の力量の究竟せざるにはあらず、良人をほゆるいぬありとしるべし。ほゆるいぬをわづらふことなかれ、うらむることなかれ。
『正法眼蔵』「渓声山色」巻
これは、道元禅師が示された文章ですが、現代的視点だと、人権問題に引っかかったりするのだろうか。多分、引っかかるんでしょうな。でも、まぁ、歴史的経緯として説明するのに、引用したので、その辺は皆さまのご理解をいただきたいところですが、この文章はつまり、禅宗が誇る歴代の祖師の中に、図らずも殺害される場合があったと指摘しています。その原因とされているのが「名利心」です。つまり、正論を説く人間を前にした時、それに耐え切れなくなった名利の塊のような者によって亡き者にされると説いているのです。
道元禅師は一例として達磨大師の場合を引いています。一説によれば、達磨大師はその優れた道業を妬んだ、菩提流支と光統という2人の僧から命を狙われ、殺されたとされています。そして、道元禅師はその2人を、「両箇のいぬ」と表現しています。名利に把われ、妬みを持つような輩は仏教徒として認めることは出来ないのであります。妬みの心は、「或る種の近さ」でもって起こります。全く関係の無い人に対して、その人がどれほど良い生活をしていたとしても、我々は妬むことがありません(羨むことはあるかも知れませんが)。例えば、鹿児島に住む人が、関係ない北海道の人の宝くじの当選を妬むことはありません。しかし、もし、隣に住む人が当選した場合、我々は妬むのです。
つまり、距離感の近さが問題で、我々仏教徒が本来、様々な世間的事象からの遠離を図る教えであることを思うと、嫉妬などは起きようも無いのです。よって、道元禅師は「いぬ」と表現したというわけです。しかし、道元禅師は優しいので、そのような者達にも「引導の発願」を施すべきだとしています。それは、菩提心を発せと説き示すのです。
このような話題をもって、今日の記事としてきましたが、皆さまどうぞ犬を大切に。ヒトはイヌと組むことによって、自然界の王者であるクマや狼から身を守ったそうですから。まぁ、大切にといっても「犬公方」ほどでは無くて良いですが。
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狗子とはいぬなり。
『正法眼蔵』「仏性」巻
とても分かり易くて、もう疑いようも無い一文です。狗子とは犬のことです。同じような文脈に、「獼猴といふは、さる、なり」(同「古鏡」巻)というのもあります。いきなり中国語で書かれても分からないだろうという修行者に向けて示された、道元禅師の慈悲深い愛語であります。この調子で、公案が解説されていますので、児孫たる我々、理解できないはずがありません・・・スミマセン、分かりません(涙)公案もそうですが、道元禅師の解説も分かりません。
それにしても、「犬」というと、まぁ、様々なメタファーにもなるわけですが、やはりその「吠える」或いは「吠えてうるさい」というイメージがあるようで、例えばこんな公案もあります。
投子青和尚、大陽に執侍すること三年。大陽、一日、師に問うて曰く「外道仏に問う『不問有言、不問無言』と。世尊、良久する如何」。
青対えんと擬す。陽、青の口を掩う。青、了然として開悟し、便乃、礼拝す。
陽曰く「汝、玄機を妙悟すや」。
青曰く「設い有りとも、也、須く吐却すべし」。
時に資侍者、旁らに立ちて曰く「青華厳、今日、病の汗を得たるが如し」。
青、回顧して曰く「狗口を合取せよ」。
『永平広録』巻9−頌古33
大陽警玄禅師と、その法嗣である投子義青禅師とで行われた「外道問仏」の問答です(あ、本当は大陽では無くて浮山法遠だったというのですが、その辺は論じると、論文みたくなるので割愛。一応、実世界での拙僧の専門はその辺です)。で、この問答は、仏道以外の教えを信奉している者が、世尊に対して、言葉で言い表せない真理を尋ねた際、世尊は黙っていたわけですが、そのことを問われた義青禅師が何か言葉で答えようとした際に、師匠はその口を掩って、これでもってその奥深い真理に会させたわけであります。
そして、大悟した義青禅師は全身汗が流れる様子だったようですが、この問答を傍らで聞いていた「資侍者」という人が、余計なことに、その汗を指摘したところ、義青禅師は「狗口を合取せよ」と言い切ったのであります。現代語訳すれば、「その犬の口を閉じよ」ということになります。うるさいから黙れ、ということですね。こういう文脈を知っていると、同じような表現があることに気付きます。
又、西天の祖師、おほく外道・二乗・国王等のためにやぶられたるを。これ外道の、すぐれたるにあらず、祖師に、遠慮なきにあらず。
初祖西来よりのち、嵩山に掛錫するに、粱武もしらず、魏主もしらず。
ときに両箇のいぬあり、いはゆる、菩提流支三蔵と光統律師となり。虚名邪利の、正人にふさがれんことをおそりて、あふぎて天日をくらまさんと擬するがごとくなりき。在世の達多よりもなほはなはだし。あはれむべし、なんぢが深愛する名利は、祖師これを糞穢よりもいとふなり。かくのごとくの道理、仏法の力量の究竟せざるにはあらず、良人をほゆるいぬありとしるべし。ほゆるいぬをわづらふことなかれ、うらむることなかれ。
『正法眼蔵』「渓声山色」巻
これは、道元禅師が示された文章ですが、現代的視点だと、人権問題に引っかかったりするのだろうか。多分、引っかかるんでしょうな。でも、まぁ、歴史的経緯として説明するのに、引用したので、その辺は皆さまのご理解をいただきたいところですが、この文章はつまり、禅宗が誇る歴代の祖師の中に、図らずも殺害される場合があったと指摘しています。その原因とされているのが「名利心」です。つまり、正論を説く人間を前にした時、それに耐え切れなくなった名利の塊のような者によって亡き者にされると説いているのです。
道元禅師は一例として達磨大師の場合を引いています。一説によれば、達磨大師はその優れた道業を妬んだ、菩提流支と光統という2人の僧から命を狙われ、殺されたとされています。そして、道元禅師はその2人を、「両箇のいぬ」と表現しています。名利に把われ、妬みを持つような輩は仏教徒として認めることは出来ないのであります。妬みの心は、「或る種の近さ」でもって起こります。全く関係の無い人に対して、その人がどれほど良い生活をしていたとしても、我々は妬むことがありません(羨むことはあるかも知れませんが)。例えば、鹿児島に住む人が、関係ない北海道の人の宝くじの当選を妬むことはありません。しかし、もし、隣に住む人が当選した場合、我々は妬むのです。
つまり、距離感の近さが問題で、我々仏教徒が本来、様々な世間的事象からの遠離を図る教えであることを思うと、嫉妬などは起きようも無いのです。よって、道元禅師は「いぬ」と表現したというわけです。しかし、道元禅師は優しいので、そのような者達にも「引導の発願」を施すべきだとしています。それは、菩提心を発せと説き示すのです。
このような話題をもって、今日の記事としてきましたが、皆さまどうぞ犬を大切に。ヒトはイヌと組むことによって、自然界の王者であるクマや狼から身を守ったそうですから。まぁ、大切にといっても「犬公方」ほどでは無くて良いですが。
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