仏教を学んだことがある人は、僧侶という存在はいわゆる乞食(こつじき、頭陀行・托鉢)でもって、食を繋ぐとか考えているかもしれません。それは確かに事実ですが、ただ、全員がその乞食を行ったわけではなく、一部の僧は、僧食といって、他の僧がいただいてきた食事を分けていただいて食べる(これを僧食という)ということがあったようです。道元禅師の教えに、次のような一節があります。
摩訶迦葉尊者、よく一生に不退不転なり。如来の正法眼蔵を正伝すといへども、この頭陀を退することなし。あるとき、仏言すらく、なんぢすでに年老なり、僧食を食すべし。摩訶迦葉尊者いはく、われもし如来の出世にあはずば、辟支仏となるべし、生前に出林に居すべし。さいはいに如来の出世にあふ、法のうるほひあり、しかりといふとも、つひに僧食を食すべからず。如来、称讃しまします。
『正法眼蔵』「行持(上)」巻
摩訶迦葉尊者は、我々禅宗にとって、釈迦牟尼仏の正式な後継者として正法眼蔵を伝授された方であり、それは「拈華微笑話」として知られています。その摩訶迦葉尊者が、釈尊の下でどのような修行をされていたのかを知る一節です。道元禅師は、摩訶迦葉尊者が、正法眼蔵を正伝したとしても、「頭陀行」を怠ることがなかったといっています。しかし、その様子を見ながら、仏陀は「そなたもすでに年老いたのだから、僧食を食べよ」と述べています(同じ文脈は『永平寺知事清規』「典座」項にも見えます)。
この「僧食」というのは、各地への托鉢を行った僧侶が、僧団に持ち帰ってきた食事を分け合って食べることや、この場合ですと出典を鑑みた時、おそらくは、檀那からの供養を意味していたようです。
後時に仏、語るに「汝、年高し。乞食を捨て衆に帰して食を受くべし。麁重の糞掃衣を捨て、壊色の居士の軽衣を受くべし」。
迦葉、仏に白さく「仏、出世し給わずんば、我れまさに辟支仏となって、身を終えるまで頭陀を行ずべし。我、今、敢えて所習を放って更に余者を学ばず……」。
天台智?『妙法蓮華経文句(第一巻下)』
様々な表現から、道元禅師が上記の箇所を引用した上で、自分の言葉に置き換えられたことは明らかであります。なお、この一節には更に、出典がありまして、それは『増一阿含経』になります。
是の時、世尊、遥かに迦葉の来るを見、世尊、告げて曰く「善来、迦葉」。
時に迦葉、便ち世尊の所に至り、頭面に足を礼し、一面に在って坐す。
世尊、告げて曰く「迦葉よ、汝、今年、高く長大にして、志衰えて朽弊す。汝、今、乞食、乃至、諸の頭陀行を捨てて、亦た諸の長者の請を受け、并びに衣裳を受くべし」。
迦葉、対えて曰く「我、今、如来の教に従わず。然る所以は、若しまさに如来、無上正真道を成ぜずんば、我、則ち辟支仏と成るべし。然らば、彼の辟支仏は、尽く阿練若を行じ、時到れば乞食して、貧富を択ばず。一処に一坐して、終に移易せず。樹下・露坐、或いは空閑の処に、五納衣を著け、或いは三衣を持して、或いは塚間に在って、或いは時に一食し、或いは正中に食し、或いは頭陀を行ず。如し今、敢えて本の所習を捨てずして、更に余行を学ばん」。
『増一阿含経』巻5・一入道品
この箇所から知られるように、「諸の長者の請を受」くとあるように、釈尊は迦葉尊者に対して、頭陀行ではなくて、長者による供養によって、食事を賄うように述べているのです。しかし、迦葉尊者はその仏陀の申し出を断っています。それは、この部分にはないのですが、そもそもこの迦葉尊者の頭陀行自体が、仏陀によって讃歎されたことなのです。ただし迦葉尊者は、もし、仏陀が世にいなければ、自分は辟支仏になるというのです。これは、辟支仏が、無仏の世に出ることを意味しています。この場合には、もちろん、仏陀は世におられたわけですが、それでも迦葉尊者は、敢えて頭陀行を行うと述べているのです。それが、先に見た「行持」巻にある通りです。
ところで、道元禅師御自身は、頭陀行の根幹である「托鉢」はそれほど重んじていなかった可能性があります。
問ウテ云ク、仏教の進めに順ツて乞食等を行ズベキ歟、如何。
答ヘテ云ク、然ルベシ。但シ、是レは土風に順ツて斟酌有るべし。なにとしても、利生も広く、我が行も進むかたに就クベキなり。是レ等の作法、道路不浄にして、仏衣を着ケて行歩せば穢つベシ。また人民貧窮にして次第乞食も叶フベカラず。行道も退クベク、利益も広カラざル歟。ただ土風を守ツて、尋常ニ仏道を行じ居たらば、上下の輩自ラ供養を作すべし。自行化他成就せん。
『正法眼蔵随聞記』巻2-17
ここにある通り、道元禅師は乞食を当然に行うべきだとしつつも、その地域の様子によって、「斟酌」して良いというのです。つまり、托鉢をすることによって、利生も広く、自分の行も進むのなら、それで良いわけですが、なかなか上手く行かないこともあるし、世間一般が貧困に喘いでいるような土地であれば、托鉢しても意味は無いので、そうすべきではないと述べています。この辺の考え方が、道元禅師にはあります。いわゆる、仏陀釈尊を基本にしつつも、その教えが「どのくらい現実に修行できるか?」という観点を欠かさないということです。田上太秀先生などは、このような道元禅師の考えを、かなり厳しく批判しています(『道元の考えたこと』講談社学術文庫)。その批判は分からなくはないですが、当時の状況を考えると、信仰だけでは如何ともし難いところがあったというべきだと思うわけです。
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摩訶迦葉尊者、よく一生に不退不転なり。如来の正法眼蔵を正伝すといへども、この頭陀を退することなし。あるとき、仏言すらく、なんぢすでに年老なり、僧食を食すべし。摩訶迦葉尊者いはく、われもし如来の出世にあはずば、辟支仏となるべし、生前に出林に居すべし。さいはいに如来の出世にあふ、法のうるほひあり、しかりといふとも、つひに僧食を食すべからず。如来、称讃しまします。
『正法眼蔵』「行持(上)」巻
摩訶迦葉尊者は、我々禅宗にとって、釈迦牟尼仏の正式な後継者として正法眼蔵を伝授された方であり、それは「拈華微笑話」として知られています。その摩訶迦葉尊者が、釈尊の下でどのような修行をされていたのかを知る一節です。道元禅師は、摩訶迦葉尊者が、正法眼蔵を正伝したとしても、「頭陀行」を怠ることがなかったといっています。しかし、その様子を見ながら、仏陀は「そなたもすでに年老いたのだから、僧食を食べよ」と述べています(同じ文脈は『永平寺知事清規』「典座」項にも見えます)。
この「僧食」というのは、各地への托鉢を行った僧侶が、僧団に持ち帰ってきた食事を分け合って食べることや、この場合ですと出典を鑑みた時、おそらくは、檀那からの供養を意味していたようです。
後時に仏、語るに「汝、年高し。乞食を捨て衆に帰して食を受くべし。麁重の糞掃衣を捨て、壊色の居士の軽衣を受くべし」。
迦葉、仏に白さく「仏、出世し給わずんば、我れまさに辟支仏となって、身を終えるまで頭陀を行ずべし。我、今、敢えて所習を放って更に余者を学ばず……」。
天台智?『妙法蓮華経文句(第一巻下)』
様々な表現から、道元禅師が上記の箇所を引用した上で、自分の言葉に置き換えられたことは明らかであります。なお、この一節には更に、出典がありまして、それは『増一阿含経』になります。
是の時、世尊、遥かに迦葉の来るを見、世尊、告げて曰く「善来、迦葉」。
時に迦葉、便ち世尊の所に至り、頭面に足を礼し、一面に在って坐す。
世尊、告げて曰く「迦葉よ、汝、今年、高く長大にして、志衰えて朽弊す。汝、今、乞食、乃至、諸の頭陀行を捨てて、亦た諸の長者の請を受け、并びに衣裳を受くべし」。
迦葉、対えて曰く「我、今、如来の教に従わず。然る所以は、若しまさに如来、無上正真道を成ぜずんば、我、則ち辟支仏と成るべし。然らば、彼の辟支仏は、尽く阿練若を行じ、時到れば乞食して、貧富を択ばず。一処に一坐して、終に移易せず。樹下・露坐、或いは空閑の処に、五納衣を著け、或いは三衣を持して、或いは塚間に在って、或いは時に一食し、或いは正中に食し、或いは頭陀を行ず。如し今、敢えて本の所習を捨てずして、更に余行を学ばん」。
『増一阿含経』巻5・一入道品
この箇所から知られるように、「諸の長者の請を受」くとあるように、釈尊は迦葉尊者に対して、頭陀行ではなくて、長者による供養によって、食事を賄うように述べているのです。しかし、迦葉尊者はその仏陀の申し出を断っています。それは、この部分にはないのですが、そもそもこの迦葉尊者の頭陀行自体が、仏陀によって讃歎されたことなのです。ただし迦葉尊者は、もし、仏陀が世にいなければ、自分は辟支仏になるというのです。これは、辟支仏が、無仏の世に出ることを意味しています。この場合には、もちろん、仏陀は世におられたわけですが、それでも迦葉尊者は、敢えて頭陀行を行うと述べているのです。それが、先に見た「行持」巻にある通りです。
ところで、道元禅師御自身は、頭陀行の根幹である「托鉢」はそれほど重んじていなかった可能性があります。
問ウテ云ク、仏教の進めに順ツて乞食等を行ズベキ歟、如何。
答ヘテ云ク、然ルベシ。但シ、是レは土風に順ツて斟酌有るべし。なにとしても、利生も広く、我が行も進むかたに就クベキなり。是レ等の作法、道路不浄にして、仏衣を着ケて行歩せば穢つベシ。また人民貧窮にして次第乞食も叶フベカラず。行道も退クベク、利益も広カラざル歟。ただ土風を守ツて、尋常ニ仏道を行じ居たらば、上下の輩自ラ供養を作すべし。自行化他成就せん。
『正法眼蔵随聞記』巻2-17
ここにある通り、道元禅師は乞食を当然に行うべきだとしつつも、その地域の様子によって、「斟酌」して良いというのです。つまり、托鉢をすることによって、利生も広く、自分の行も進むのなら、それで良いわけですが、なかなか上手く行かないこともあるし、世間一般が貧困に喘いでいるような土地であれば、托鉢しても意味は無いので、そうすべきではないと述べています。この辺の考え方が、道元禅師にはあります。いわゆる、仏陀釈尊を基本にしつつも、その教えが「どのくらい現実に修行できるか?」という観点を欠かさないということです。田上太秀先生などは、このような道元禅師の考えを、かなり厳しく批判しています(『道元の考えたこと』講談社学術文庫)。その批判は分からなくはないですが、当時の状況を考えると、信仰だけでは如何ともし難いところがあったというべきだと思うわけです。
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