Quantcast
Channel: つらつら日暮らし
Viewing all articles
Browse latest Browse all 15762

聖道門の浄土門との違いについて

$
0
0
色々な見解があるタイトルにしてみたのですが、1つ、以下の見解を見ていただきたいと思います。

  門人が伝えていること
 (一篇)上人が、或る時示していわれるには「聖道と浄土の二門はよくよく分別すべきものである。
 聖道門は「煩悩即菩提、生死即涅槃」と談じている。私もこの法門を人に教えるべきなのだが、今時の人の才能では、(悟りに)契うことはない。如何にも、元々具わる煩悩に基づく、執着心に立ち返ってしまって、人を損するためである。
 浄土門は、身心を捨てて、三界・六道の中に、希望するところを1つも無くして、往生を願うのである。この界の中に、1つとして、執着することがあることはない。この身をここに置きながら、生死を離れることではないのだ。
    『一遍上人語録(下)』、岩波文庫『一遍上人語録』71〜72頁、拙僧ヘタレ訳

「門人が伝えていること」というのは、要するに「聞書」ということです。一遍上人が仰っていたことを記録してくれた、その言葉が「語録」として残され、その1つが以上のものです。一遍上人は系統的にこれと定めるのが難しい人ですが、いわゆる浄土門の学びは、西山義で行った方とされています。

その一遍上人が、聖道門と浄土門とを区別しています。なお、この区別ですが、仏教一般の見解というよりは、浄土教の方が、自らを自覚していくときに、阿弥陀如来の他力を信じるのではなく、仏陀釈尊が説かれた仏性を信じて、自ら修行して悟りを得て救済されていく人を、このようにカテゴライズしたのです。易行道とか、自力門とか、いっていることは基本的に同じになりますが、そのカテゴリーが、本当に相手にとって、つまりは拙僧どもにとって正しいかどうかは吟味される必要があるのです。

ですので、この記事についても、あくまでも一遍上人の立場で区別したことだと認識した上で見ていく必要があります。そこで、まず一遍上人は、聖道門が「煩悩即菩提、生死即涅槃」と談じるとしています。確かに、この語は天台宗系の文献などで多出しますし、禅宗でも一部出て来ます。これを聖道門としているということは、一般的に相対する事象と思われている両者が、即是の論理で結合されていくことについて、ただならぬ修行を要していることだと一遍上人が判断していることとなります。自力行の人がいうべき見解なのです。

一遍上人自身、本来であれば、それを私も指導すべきだといっています。確かに、上人自身はこの程度の即是の論理はアッサリと使いこなせたことでしょう。それが証拠に、承認は臨済宗法灯派派祖である心地覚心禅師から、印可証明をいただいているほどです。ですが、上人はそうはしないといっているのです。その理由は、この時代の人の才能では、この見解に契うことはないとしているのです。これは、明確に末世(末法の世)の自覚を持っているといえましょう。

確かに、この時代浄土門が流行った理由は、ただ思想的に仏教が大衆化したということの前に、末世に突入してしまっている当時の日本で、釈尊の教えが驚くほどに軽視されていた、或いは失望されていたという世相があったはずです。だからこそ、救済が来るかどうか怪しい末世の娑婆世界で、釈尊の教えを奉ずるのではなく、他土往生して、西方におわします阿弥陀如来の教えを聞こうとしているのです。

それを、一遍上人は、「三界・六道の中に、希望するところを1つも無くして」という表現で語っています。ここにいても、釈尊の教えは届かないかもしれない、だから、此処に留まろうとするのではなくて、往生を願うべきだという論理です。ここで、聖道門と浄土門は鋭く区別されていくのです。

この記事を評価して下さった方は、にほんブログ村 哲学ブログ 仏教へにほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。

これまでの読み切りモノ〈仏教10〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

Viewing all articles
Browse latest Browse all 15762

Trending Articles