何故か【(1)】では、当初想定していたのと、全く別の方向に話が行ってしまったので反省しきりです。
改めて、以下の教えから、我々に実りある教えを導きたいと思います。
三世諸仏、皆出家成道と曰う。西天二十八祖・唐土の六祖、仏心印を伝うるは、尽く是れ沙門なり。蓋し毘尼を厳浄するを以て、方に能く三界に洪範たり。然れば則ち参禅問道は、戒律を先と為す。既に過を離れ非を防ぐに非ざれば、何を以てか成仏作祖せん。
受戒の法は、まさに三衣・鉢具并びに新浄の衣物を備うべし。如し新衣無くんば、浣染して浄からしめよ、入壇受戒には、衣鉢を借ることを得ざれ。一心に専注して、慎んで異縁あることなかれ。仏の形儀を象り、仏の戒律を具し、仏の受用を得る、此れ小事に非ず。豈に軽心にすべけんや。若し衣鉢を借らば、登壇受戒すと雖も、并びに戒を得ず。若し曽て受けざれば、一生無戒の人為り。濫りに空門に廁わり、虚しく信施を受けん。初心の入道は、法律未だ諳んぜず、師匠言わざれば、人を此に陥さん。今茲に苦口す、敢えて望むらくは、心に銘ずべし。既に声聞の戒を得く、応に菩薩の戒を得くべし、此れ入法の漸なり。
『禅苑清規』巻1、下線は拙僧
さて、我々が仏教を学ぶという時、その最初に受戒がなければ成りません。受戒とは、師から戒律を受けることで、在家信者の方であれば五戒、出家者の沙弥であれば、沙弥十戒を受けます。もっとも、現在の曹洞宗では、高祖である道元禅師が、それらの戒律の適用を停止し、十六條の仏戒だけで足りるとしたようで、それを受けて、在家信者に対する授戒会でも、出家者の得度式でも、伝法式の際の伝戒でも、全て十六條の仏戒を用います。それが、色々と厄介な問題を起こしていることは事実だと思いますが、それはそれ、ここで論じる問題でもないので、別の機会に考えます。
そこで、この『禅苑清規』で言われていることとは、いわば、成道というのは出家でなければならず、その出家する際の受戒の法とは、三つの大きさの御袈裟=三衣と、応量器を準備しなければならないということです。もし、他人のを借りて行った場合には、式は無効になってしまいます。もし、無効になってしまいますと、あらゆる修行が空しいものとして終わり、それでもって、信者から布施を受ければ、恐るべき大罪を犯すことになります。この資格がないのに布施を受ける大罪とは、古来から僧侶への戒めとして、繰り返し採り上げられている事柄であります。最近読んでいた『沙石集』の巻9にも、多くこの「信施」の問題が採り上げられており、『五百問論』という論書からの引用が多くあるようです。その中に、こんな話があります。
五百問論の中に云はく、「ある道人ありけり。その徳なくして、徒らに人の施を受けけるが、大きなる肉の山となりてけり云々」。
この人は、人から布施を受けたものの、その功徳を布施をしてくれた方に回らそうとしなかったため、結局大きな罰を受けたというお話しです。ただ、研究者によると、この話は、現行、我々がそれとしてみている『五百問論』にはないそうですけど、『五百問論』も、現在のは370問前後(具体数は失念)しか掲載されていないようなので、もしかすると散逸しているのかもしれませんね。
さて、このように、形だけ僧侶で、檀信徒から布施を受けるというのは大きな罪になるということです。それが無いように、僧侶は戒律を学び、そして仏陀の教えを学ばなければなりません。なお、このような罪から逃れるために、『仏頂尊勝陀羅尼』が効くらしいです。それで、昔から禅宗なども、この陀羅尼を使うとか・・・どの世界にも“逃げ道”というのはあるものです。もちろん、使わなくても良いように、日頃から修行しておくのが望ましいわけですがね。
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三世諸仏、皆出家成道と曰う。西天二十八祖・唐土の六祖、仏心印を伝うるは、尽く是れ沙門なり。蓋し毘尼を厳浄するを以て、方に能く三界に洪範たり。然れば則ち参禅問道は、戒律を先と為す。既に過を離れ非を防ぐに非ざれば、何を以てか成仏作祖せん。
受戒の法は、まさに三衣・鉢具并びに新浄の衣物を備うべし。如し新衣無くんば、浣染して浄からしめよ、入壇受戒には、衣鉢を借ることを得ざれ。一心に専注して、慎んで異縁あることなかれ。仏の形儀を象り、仏の戒律を具し、仏の受用を得る、此れ小事に非ず。豈に軽心にすべけんや。若し衣鉢を借らば、登壇受戒すと雖も、并びに戒を得ず。若し曽て受けざれば、一生無戒の人為り。濫りに空門に廁わり、虚しく信施を受けん。初心の入道は、法律未だ諳んぜず、師匠言わざれば、人を此に陥さん。今茲に苦口す、敢えて望むらくは、心に銘ずべし。既に声聞の戒を得く、応に菩薩の戒を得くべし、此れ入法の漸なり。
『禅苑清規』巻1、下線は拙僧
さて、我々が仏教を学ぶという時、その最初に受戒がなければ成りません。受戒とは、師から戒律を受けることで、在家信者の方であれば五戒、出家者の沙弥であれば、沙弥十戒を受けます。もっとも、現在の曹洞宗では、高祖である道元禅師が、それらの戒律の適用を停止し、十六條の仏戒だけで足りるとしたようで、それを受けて、在家信者に対する授戒会でも、出家者の得度式でも、伝法式の際の伝戒でも、全て十六條の仏戒を用います。それが、色々と厄介な問題を起こしていることは事実だと思いますが、それはそれ、ここで論じる問題でもないので、別の機会に考えます。
そこで、この『禅苑清規』で言われていることとは、いわば、成道というのは出家でなければならず、その出家する際の受戒の法とは、三つの大きさの御袈裟=三衣と、応量器を準備しなければならないということです。もし、他人のを借りて行った場合には、式は無効になってしまいます。もし、無効になってしまいますと、あらゆる修行が空しいものとして終わり、それでもって、信者から布施を受ければ、恐るべき大罪を犯すことになります。この資格がないのに布施を受ける大罪とは、古来から僧侶への戒めとして、繰り返し採り上げられている事柄であります。最近読んでいた『沙石集』の巻9にも、多くこの「信施」の問題が採り上げられており、『五百問論』という論書からの引用が多くあるようです。その中に、こんな話があります。
五百問論の中に云はく、「ある道人ありけり。その徳なくして、徒らに人の施を受けけるが、大きなる肉の山となりてけり云々」。
この人は、人から布施を受けたものの、その功徳を布施をしてくれた方に回らそうとしなかったため、結局大きな罰を受けたというお話しです。ただ、研究者によると、この話は、現行、我々がそれとしてみている『五百問論』にはないそうですけど、『五百問論』も、現在のは370問前後(具体数は失念)しか掲載されていないようなので、もしかすると散逸しているのかもしれませんね。
さて、このように、形だけ僧侶で、檀信徒から布施を受けるというのは大きな罪になるということです。それが無いように、僧侶は戒律を学び、そして仏陀の教えを学ばなければなりません。なお、このような罪から逃れるために、『仏頂尊勝陀羅尼』が効くらしいです。それで、昔から禅宗なども、この陀羅尼を使うとか・・・どの世界にも“逃げ道”というのはあるものです。もちろん、使わなくても良いように、日頃から修行しておくのが望ましいわけですがね。
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