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永平高祖絶講の嘆

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禅僧たるもの、夏場の暑い時期に坐禅何ぞをしていてはダメです。むしろ、坐禅はあくまでもルーティンに留めて、別の時間に充てると良いと思います。そのことについて、以下のような見解がありました。

蓋し高祖、曾て絶講の嘆有り。後世主法の者、暑月に当たりて晨晡、或いは大乗経、並びに祖宗規典家訓等を講演して、以て後昆を啓迪せよ。庶幾する(=心から願うこと)は、各自、古人の行履・参禅の要路を知り、合わせて空腹高心、拍盲無事の誚めを免れるに至る。
    玄透即中禅師『永平小清規』「免鳴坐禅版」

これは、道元禅師が経典講義がなかったことを嘆いたことがあったそうで、よって、玄透禅師は暑い時期には、その日の朝と夕方に、大乗経典や、禅宗の語録、清規、家訓などを講演すべきであるというのです。そもそもの「絶講の嘆」が何を指しているのか分からず、こういう故事については、拙僧寡聞にして知らないのですが、何か伝えられるものがあったのでしょう。

そこで、夏場は暑いので、坐禅修行などには身が入らない、よって、こういう経典などを学んで、古人の行履や、参禅の要路を知って、自らの修行に活かすように述べているのです。拙僧つらつら鑑みるに、この時代多くの師家が、経典を学ぶように促しています。それは、裏を返せばこの時代にも、経典などを学ぶ者が少なかったということでしょうし、僧堂での修行を再興しても、その反面坐禅だけやっていれば良いという話になったのではないかとも思われます。しかし、文字から仏教を知るのは誡められても、文字が要らないという短絡的な話になるのもおかしなことです。それは、以下の教えに明らかです。

寮中、応に大乗経並びに祖宗の語句を看て、自ら古教照心の家訓と合すべし。
    『衆寮箴規

これは、衆寮での修行について述べられた箇所ですけれども、衆寮にいる間は、大乗経典や禅宗の語録を見て、そして古教照心の家訓に契うようにすべきだというのです。これも、色々と解釈法がありますが、一応当時の永平寺の日分行持を知ることができる『弁道法』に依れば、衆寮での修行が組み込まれています。

雲堂の大衆、斎罷に蒲団を収めて堂を出でて、衆寮の看読牀に就いて歇む。

衆寮の看読牀に就くべきだという教えになりますが、これが毎日行われていたとすれば、毎日経典を学ぶ時間があったということになります。また、そもそも、経典の素養がなければ、せっかく自らが得た仏道修行の経験を組織化して、他人に語ることも出来ませんし、自らの修行の修正なども出来ません。つまり、ただ坐禅ばっかりしているというのは、暗闇に中で、灯りもなく進んでいるようなものなのです。

だからこそ、坐禅修行と、適度な経典の読誦は、自らの中で横断的に行われていくべきなのです。どちらかに偏れば、それ自体が「中道の理」から遠く離れてしまうことになります。注意が必要ですね。そして、どうにもこの偏りに無自覚、或いは坐禅だけしている人は、経本みたいな難しいものはやらなくても良いと自己肯定し、坐禅せずに経本ばっかり勉強している人も、やっぱり修行なんか要らないと自己肯定し、問題はこの肯定したがっている自己そのものを、どうやって批判するかなんだと思うんですね。

少なくとも、坐禅しろと祖師は仰っているのだし、一方で経典勉強して「古教照心」しろとも仰っているのだから、どちらかに偏るのはダメなんですよ。それから、何となく思ったのは、こういう玄透禅師の教えもあって、今の「眼蔵会」が生まれたんでしょうかねぇ・・・

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