拙僧自身も、と或る書籍への説明文にちょっと書いたことがあるが、良く、『正法眼蔵随聞記』の説明として、こんな感じの文章がある。
『正法眼蔵随聞記』は、当時修行の初心者だった懐弉禅師や、他の弟子達(俗人もいたと思われる)に対して説かれたもので、初心者には特に理解しやすい内容であり、自分の修行に於いても指針となり、励みともなる書物である。
『正法眼蔵随聞記』項―つらつら日暮らしWiki
ここで、懐弉禅師や、他の弟子達、俗人までいたとはいうが、実際それは本文を読んでいて感じられるものの、具体的に、誰がどれくらい出ているのかについては(おそらく先行研究にはあるのだろうけど)、拙僧自身把握していなかった。よって、この記事では、『随聞記』を全部読んで、そこから探ってみたい。何の問題も無い。『随聞記』は、文庫本サイズでたった一冊だ。
今回用いるのは、水野弥穂子先生訳『正法眼蔵随聞記』(ちくま学芸文庫)である。採り上げるのは、道元禅師を除く発話者を中心に、その話題の中に、他の聴衆を示す語句があれば、それを列挙したい。なお、同じ箇所に同じ人が2回以上出る場合には、初出のみ。また、引用に当たってはカナをかなにし、見易くした(原文からは遠くなるので要注意)。更に、名前が省略されていて、元の名前が分かる時には、末尾に()で補い(例:弉公⇒懐弉)、分からない場合には、(不明)としたが、出家・在家の区別だけは付けつつ、それも怪しい時には「?」を付けている。難しいのは、道元禅師が引用された公案・故事の中に出る人物を禅師が代弁する場合がある。それには水野先生の訳文や見解を受けつつ、そして拙僧自身の知見でもって慎重に選んでいるが、間違いがあるかもしれないことを断っておく。
巻2―1(1) 弉公問うて云く(懐弉)
巻2―4(1) 弉、師に問うて云く(懐弉)
巻2―4(2) 弉問うて云く(懐弉)
巻2―11 弉問うて云く(懐弉)
巻2―13 ある人問うて云く(不明・出家人?)
巻2―15 爰に有る在家人、来って問うて云く(不明・在家人)
巻2―16 弉問うて云く(懐弉)
巻2―17 問うて云く(不明・出家人、懐弉?)
巻3―6 またある人云く(不明、引用か?)
同上 またある人すすみて云く(不明)
巻3―11 一日学人問うて云く(不明・出家人)
巻3―15 問うて云く(不明・出家人、懐弉?)
巻3―16 夜話の次に弉公問うて云く(懐弉)
巻3―18 因みに問うて云く(不明・出家人、懐弉?)
巻4―2 ある時比丘尼云く(不明・出家人)
巻4―9(1) 一日僧来って学道之用心を問ふ次に示に云く(不明・出家人)
巻4―10 また僧云く(不明・出家人)
巻5―4 始めて懐弉を興聖寺の首座に請ず(懐弉)
巻5―8(1) 今の学者知るべし(不明・出家人)
巻5―11 一日ある客僧の云く(不明・出家人)
巻6―5 一日僧問うて云く(不明・出家人)
巻6―11 一日弉問うて云く(懐弉)
巻6―13 時に弉公云く(懐弉)
巻6―24 弉問うて云く(懐弉)
明らかに発話者、或いは言葉の対象が特定の人を指し示す場合に限って、以上に列挙してみた。例えば、「参の次いで」などとあれば、もちろん、誰かがそこで参じていた(小参など)していたわけで、誰かはいたが、この説示の記録をしていたのであろう懐弉禅師のみの可能性ももちろんあるわけで、それは省略した。そして、まとめてみれば、ほとんどの場合は懐弉禅師が質問していることが分かった。まぁ、これは実際に『随聞記』を読んでみれば、すぐに分かることである。後は、誰かは分からないが、「ある人」「僧」「客僧」などの言い方で、僧侶の往来があったことも分かる。
そして、特筆すべきは、在家人が来て、親しげに法を問うていたこと(内容は、僧侶への供養について)や、比丘尼も法を問うていることであろう。『永平広録』を見れば、道元禅師の会下に、比丘尼懐義・恵信がいたことは明らかであるが、比丘尼の参学はかなり早い段階、京都興聖寺僧団成立当初からであったことになる。また、扱いが困るのが水野先生が底本にされた長円寺本の巻1、或いは和辻哲郎氏が底本にされた面山本の巻6に相当する1巻である。この1巻は、完全に道元禅師の独り語りである。よって、これが途中に編入されていないのは当然である。置き場所は1か6、つまり、この1巻は、最初か最後に置かれなくてはならない。理由は次の2つである。
1:初心者を自認する懐弉禅師がただ、道元禅師の教えを拝受しただけであるため問答にならず独語として記録。
2:問答では無く、しかもいつ頃話したか分からないような道元禅師の教えを、それとなくまとめた1巻であるため、それ以外の時間的前後が分かる箇所とは別の1巻になった。拾遺のような扱いで、6巻に編入。
だいたいこんなところではなかろうか?拙僧的には、『随聞記』に、大まかにいって2種類の編集形式があることについて、理由が分かっていなかったが、上記の如く明らかに説相が違っているのであれば、理由は推測可能である。後は、推測が現実のもとなるように論証されねばならないが、この作業は困難で、実態は良く分からない。
とりあえず、この記事は以上にしておくが、見てきた通り、懐弉禅師の記録だけあって、問答も道元禅師―懐弉禅師の師資を中心に進むことが確認された。それが確認出来ただけでも、調べる価値があった。
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『正法眼蔵随聞記』は、当時修行の初心者だった懐弉禅師や、他の弟子達(俗人もいたと思われる)に対して説かれたもので、初心者には特に理解しやすい内容であり、自分の修行に於いても指針となり、励みともなる書物である。
『正法眼蔵随聞記』項―つらつら日暮らしWiki
ここで、懐弉禅師や、他の弟子達、俗人までいたとはいうが、実際それは本文を読んでいて感じられるものの、具体的に、誰がどれくらい出ているのかについては(おそらく先行研究にはあるのだろうけど)、拙僧自身把握していなかった。よって、この記事では、『随聞記』を全部読んで、そこから探ってみたい。何の問題も無い。『随聞記』は、文庫本サイズでたった一冊だ。
今回用いるのは、水野弥穂子先生訳『正法眼蔵随聞記』(ちくま学芸文庫)である。採り上げるのは、道元禅師を除く発話者を中心に、その話題の中に、他の聴衆を示す語句があれば、それを列挙したい。なお、同じ箇所に同じ人が2回以上出る場合には、初出のみ。また、引用に当たってはカナをかなにし、見易くした(原文からは遠くなるので要注意)。更に、名前が省略されていて、元の名前が分かる時には、末尾に()で補い(例:弉公⇒懐弉)、分からない場合には、(不明)としたが、出家・在家の区別だけは付けつつ、それも怪しい時には「?」を付けている。難しいのは、道元禅師が引用された公案・故事の中に出る人物を禅師が代弁する場合がある。それには水野先生の訳文や見解を受けつつ、そして拙僧自身の知見でもって慎重に選んでいるが、間違いがあるかもしれないことを断っておく。
巻2―1(1) 弉公問うて云く(懐弉)
巻2―4(1) 弉、師に問うて云く(懐弉)
巻2―4(2) 弉問うて云く(懐弉)
巻2―11 弉問うて云く(懐弉)
巻2―13 ある人問うて云く(不明・出家人?)
巻2―15 爰に有る在家人、来って問うて云く(不明・在家人)
巻2―16 弉問うて云く(懐弉)
巻2―17 問うて云く(不明・出家人、懐弉?)
巻3―6 またある人云く(不明、引用か?)
同上 またある人すすみて云く(不明)
巻3―11 一日学人問うて云く(不明・出家人)
巻3―15 問うて云く(不明・出家人、懐弉?)
巻3―16 夜話の次に弉公問うて云く(懐弉)
巻3―18 因みに問うて云く(不明・出家人、懐弉?)
巻4―2 ある時比丘尼云く(不明・出家人)
巻4―9(1) 一日僧来って学道之用心を問ふ次に示に云く(不明・出家人)
巻4―10 また僧云く(不明・出家人)
巻5―4 始めて懐弉を興聖寺の首座に請ず(懐弉)
巻5―8(1) 今の学者知るべし(不明・出家人)
巻5―11 一日ある客僧の云く(不明・出家人)
巻6―5 一日僧問うて云く(不明・出家人)
巻6―11 一日弉問うて云く(懐弉)
巻6―13 時に弉公云く(懐弉)
巻6―24 弉問うて云く(懐弉)
明らかに発話者、或いは言葉の対象が特定の人を指し示す場合に限って、以上に列挙してみた。例えば、「参の次いで」などとあれば、もちろん、誰かがそこで参じていた(小参など)していたわけで、誰かはいたが、この説示の記録をしていたのであろう懐弉禅師のみの可能性ももちろんあるわけで、それは省略した。そして、まとめてみれば、ほとんどの場合は懐弉禅師が質問していることが分かった。まぁ、これは実際に『随聞記』を読んでみれば、すぐに分かることである。後は、誰かは分からないが、「ある人」「僧」「客僧」などの言い方で、僧侶の往来があったことも分かる。
そして、特筆すべきは、在家人が来て、親しげに法を問うていたこと(内容は、僧侶への供養について)や、比丘尼も法を問うていることであろう。『永平広録』を見れば、道元禅師の会下に、比丘尼懐義・恵信がいたことは明らかであるが、比丘尼の参学はかなり早い段階、京都興聖寺僧団成立当初からであったことになる。また、扱いが困るのが水野先生が底本にされた長円寺本の巻1、或いは和辻哲郎氏が底本にされた面山本の巻6に相当する1巻である。この1巻は、完全に道元禅師の独り語りである。よって、これが途中に編入されていないのは当然である。置き場所は1か6、つまり、この1巻は、最初か最後に置かれなくてはならない。理由は次の2つである。
1:初心者を自認する懐弉禅師がただ、道元禅師の教えを拝受しただけであるため問答にならず独語として記録。
2:問答では無く、しかもいつ頃話したか分からないような道元禅師の教えを、それとなくまとめた1巻であるため、それ以外の時間的前後が分かる箇所とは別の1巻になった。拾遺のような扱いで、6巻に編入。
だいたいこんなところではなかろうか?拙僧的には、『随聞記』に、大まかにいって2種類の編集形式があることについて、理由が分かっていなかったが、上記の如く明らかに説相が違っているのであれば、理由は推測可能である。後は、推測が現実のもとなるように論証されねばならないが、この作業は困難で、実態は良く分からない。
とりあえず、この記事は以上にしておくが、見てきた通り、懐弉禅師の記録だけあって、問答も道元禅師―懐弉禅師の師資を中心に進むことが確認された。それが確認出来ただけでも、調べる価値があった。
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