拙僧が、宗学の研究にシステム論を使い出したのは、或る自然科学者の先達がいたためである。その先達とは、かつての文部大臣、そして医学博士である橋田邦彦先生である。『正法眼蔵』を学んだ人であれば、おそらく『正法眼蔵釈意』というのを、名前くらいでも聞いたことがあるのではなかろうか?この『釈意』は、橋田先生が自身が構築した「全機性」の概念と、『正法眼蔵抄』の見解を元に、『正法眼蔵』を読み解いたものである。拙僧自身はどこか最初から、自然科学と宗教というのは、相容れないものなのだろうと思っていたところがあったから、『釈意』の作者が医学博士で、しかも、東京大学にて医学生理学を教えていた教授でもあったというのは、もはや理解不能であった。
ただ、その理解不能ということも、橋田先生の著作に触れて徐々に解消された。その中でも、橋田先生が行われた講演を元に刊行された『行としての科学』(文部省・日本文化叢書)には、次のように書いてある。
私の申上げることもこの書物以外に何物もないのであります。是は道元禅師の書き著はされた『正法眼蔵』といふものであります。仏教の書物であります。即ち、正しい法の光によって総てのものを照し包むといふ意味のものでありまして、『正法眼蔵』とは仏教の真髄といふ意味であります。我々自然科学者といふものが如何なる態度で自然科学に携はらなければならぬかといふことを丁寧懇切に指し示してあるのであります。
前掲同著38頁
『正法眼蔵』という用語の把握についても、まずこの通りであろう。この辺は『正法眼蔵抄』の参究も影響しているかと思うが、橋田先生が何を以て、「自然科学者の態度」を『正法眼蔵』に見出したかといえば、「主客未分物心一如」として、事象を探究しなくてはならないというところに、その軸を置いているのである。そして、その「主客未分物心一如」のもっとも能く表現された著作こそが『正法眼蔵』なのである。橋田先生が、この典拠として『正法眼蔵』から引用された代表的な箇所(他にもあるだろうが、あくまでも一例である)は以下の通りである。
・身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。 「現成公案」巻
・尽十方といふは、遂物為己、遂己為物の未休なり。 「一顆明珠」巻
前者については、「身心を挙して」という状況が、「身心一如」ながらに事象に没入している様子を示すものとして尊重している。結果的に、身心一如乍らに没入しているので、色を見取し、声を聴取するという、各々の事象の完結性、或いは「不回互」という状況を、体験そのものが真実である様子として引いているのだ。問題は、体験自体が「真実」ということである。いわばこれは、一切の事象を探究するとき、その探究されるべき事象が、「誤ったものではない」ということになる。例えば、手元にある「試料」が、結局従来良く知られたものであったとしよう。多少解釈を変えても、新知見が出ないとき、それはその「試料」が悪いのである。或いは、本来行うべき研究に、その「試料」がそぐわないこともある。そういう時、我々は、「試料」の選別からやり直さなくてはならない。それは、我々自身の修行とて同じことである。
「努力すれば報われる」という、とても「耳障りが良い言葉」がある。いいのは「耳障り」だけで、内容が無いし、おそらくこの言葉は「虚偽」である。むしろ、「そうあって欲しい」という願いにすら聞こえる言葉である。しかし、いくら努力しても、望む結果が出ない場合、それは努力の方法自体が悪いということになる。それと同じように、我々自身は、如何にして成仏できるか?を、その宗義として持っている。その方法と結果を総じて、「宗意安心」という。宗意安心に関わらないで、ただ修行している場合、それはおそらく、「ラジオ体操」などと同義となる。よって、ここに明確に成仏行に関わる坐禅と、ただのリラクゼーションである「ヨガ」との違いが生じる。無理して同じくする必要は無い。今、世間で流行しているヨガの全てが、成仏には関係が無い。しかし、坐禅であれば、喩え下手でも、時間が短くても、初心者であっても、成仏に関係する。おそらくは、念仏でも、唱題でも良いのかもしれない。ただ、我々は坐禅をその基軸とする。
出出しが違うのならば、プロセスが似ていても結果は全く違う。よって、橋田先生は、その「最初」を誤らないようにするために、「身心一如」として事象に没入する方法を自然科学者も採るべきだというのである。後者の「一顆明珠」巻も同様だが、物と己とが分かれ、離却しているから、我々はその「隙間」に足を取られ、誤った「試料」を掴んでしまうのである。「自然科学」とは、この私がいる世界そのものを探究することに他ならないのだから、主客未分であれば、その時の自己の見解は、物である。物となって考えるのだから、客観性は全て備わり、その中で、誤ることなき思考・探究も可能となる。橋田先生が、『正法眼蔵』から見出した方法とは、掻い摘んでいえばそのようなことである。
自然科学者としての我々の立場について考へて見ますと、自然科学者といふものが人間である以上、やって居ることは人生活動以外の何物でもないのであります。即ち自然科学者の人生といふものがそこにあるのでありますから、それは人格としてそこへ現はれて来なければならないのであります。若し自然科学といふものが自然科学者の人格といふものの中へ織り込まれていないのならば、自然科学者としての人格といふものは少しもないことになります。
前掲同著8頁
拙僧はこの「自然科学者」を、「宗教者」に、「自然科学」を「宗教」に切り替えても、同じ意味を持つように思う。いや、特にそうでなくてはならないと思う。道元禅師は、「僧は勝友なるがゆえに帰依す」(『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻)というものがある。何故勝友かといえば、それは宗教が信心が仏教が、その人格というものの中に織り込まれているからである。物の見方が既に、仏教なのである。よって、それが出来ていない者の言葉は、幾らそれらしく引用されていても、非常に軽い。逆に、出来ている者の言葉は、どれほどに陳腐でも、重い。それはつまり、無上菩提を演説する師こそが、僧侶だということだ。
釈迦牟尼仏のいはく、無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若を尊重するがゆえに、日日に百千両の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし、天華を散じて供養すべし。日日三時礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむることなかれ。かくのごとくすれば、菩提の道、かならずところあり。
『正法眼蔵』「礼拝得髄」巻
その人の生まれ、顔、そして非行の有無などをもって、「無上菩提」を測ってはならない。しかし、世間の人は、往々にして「良い仏教者」の基準を、そこに置いてしまう。だから、日本の伝統仏教は、力を失ったという評判になってしまうのだ。拙僧自身は、そのような世間の評判に耳を貸せる程、「俗擦れ」していないので、ただ笑い飛ばしてしまうのみだが、しかし、それもこれも、橋田先生の言葉などから、その想いを汲み取っているからである。よって、多生の見た目などを気にすることはなくなった。それよりも、「真実の試料」を掴んで、その中で探究を進めた方が、よほどためになるからである。いや、「比較にならない」というのが正しい。
拙僧自身、ようやく最近、手元に橋田先生の著作が揃ってきたから、今後、ブログの記事を書くときにも、影響していくとは思うけれども、その想いの共有は、早急に行うべきであると思う。そして、それは同時に自らの学びの方向性にも、良い影響を与えてくれると信じている。
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ただ、その理解不能ということも、橋田先生の著作に触れて徐々に解消された。その中でも、橋田先生が行われた講演を元に刊行された『行としての科学』(文部省・日本文化叢書)には、次のように書いてある。
私の申上げることもこの書物以外に何物もないのであります。是は道元禅師の書き著はされた『正法眼蔵』といふものであります。仏教の書物であります。即ち、正しい法の光によって総てのものを照し包むといふ意味のものでありまして、『正法眼蔵』とは仏教の真髄といふ意味であります。我々自然科学者といふものが如何なる態度で自然科学に携はらなければならぬかといふことを丁寧懇切に指し示してあるのであります。
前掲同著38頁
『正法眼蔵』という用語の把握についても、まずこの通りであろう。この辺は『正法眼蔵抄』の参究も影響しているかと思うが、橋田先生が何を以て、「自然科学者の態度」を『正法眼蔵』に見出したかといえば、「主客未分物心一如」として、事象を探究しなくてはならないというところに、その軸を置いているのである。そして、その「主客未分物心一如」のもっとも能く表現された著作こそが『正法眼蔵』なのである。橋田先生が、この典拠として『正法眼蔵』から引用された代表的な箇所(他にもあるだろうが、あくまでも一例である)は以下の通りである。
・身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみにかげをやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは一方はくらし。 「現成公案」巻
・尽十方といふは、遂物為己、遂己為物の未休なり。 「一顆明珠」巻
前者については、「身心を挙して」という状況が、「身心一如」ながらに事象に没入している様子を示すものとして尊重している。結果的に、身心一如乍らに没入しているので、色を見取し、声を聴取するという、各々の事象の完結性、或いは「不回互」という状況を、体験そのものが真実である様子として引いているのだ。問題は、体験自体が「真実」ということである。いわばこれは、一切の事象を探究するとき、その探究されるべき事象が、「誤ったものではない」ということになる。例えば、手元にある「試料」が、結局従来良く知られたものであったとしよう。多少解釈を変えても、新知見が出ないとき、それはその「試料」が悪いのである。或いは、本来行うべき研究に、その「試料」がそぐわないこともある。そういう時、我々は、「試料」の選別からやり直さなくてはならない。それは、我々自身の修行とて同じことである。
「努力すれば報われる」という、とても「耳障りが良い言葉」がある。いいのは「耳障り」だけで、内容が無いし、おそらくこの言葉は「虚偽」である。むしろ、「そうあって欲しい」という願いにすら聞こえる言葉である。しかし、いくら努力しても、望む結果が出ない場合、それは努力の方法自体が悪いということになる。それと同じように、我々自身は、如何にして成仏できるか?を、その宗義として持っている。その方法と結果を総じて、「宗意安心」という。宗意安心に関わらないで、ただ修行している場合、それはおそらく、「ラジオ体操」などと同義となる。よって、ここに明確に成仏行に関わる坐禅と、ただのリラクゼーションである「ヨガ」との違いが生じる。無理して同じくする必要は無い。今、世間で流行しているヨガの全てが、成仏には関係が無い。しかし、坐禅であれば、喩え下手でも、時間が短くても、初心者であっても、成仏に関係する。おそらくは、念仏でも、唱題でも良いのかもしれない。ただ、我々は坐禅をその基軸とする。
出出しが違うのならば、プロセスが似ていても結果は全く違う。よって、橋田先生は、その「最初」を誤らないようにするために、「身心一如」として事象に没入する方法を自然科学者も採るべきだというのである。後者の「一顆明珠」巻も同様だが、物と己とが分かれ、離却しているから、我々はその「隙間」に足を取られ、誤った「試料」を掴んでしまうのである。「自然科学」とは、この私がいる世界そのものを探究することに他ならないのだから、主客未分であれば、その時の自己の見解は、物である。物となって考えるのだから、客観性は全て備わり、その中で、誤ることなき思考・探究も可能となる。橋田先生が、『正法眼蔵』から見出した方法とは、掻い摘んでいえばそのようなことである。
自然科学者としての我々の立場について考へて見ますと、自然科学者といふものが人間である以上、やって居ることは人生活動以外の何物でもないのであります。即ち自然科学者の人生といふものがそこにあるのでありますから、それは人格としてそこへ現はれて来なければならないのであります。若し自然科学といふものが自然科学者の人格といふものの中へ織り込まれていないのならば、自然科学者としての人格といふものは少しもないことになります。
前掲同著8頁
拙僧はこの「自然科学者」を、「宗教者」に、「自然科学」を「宗教」に切り替えても、同じ意味を持つように思う。いや、特にそうでなくてはならないと思う。道元禅師は、「僧は勝友なるがゆえに帰依す」(『正法眼蔵』「帰依仏法僧宝」巻)というものがある。何故勝友かといえば、それは宗教が信心が仏教が、その人格というものの中に織り込まれているからである。物の見方が既に、仏教なのである。よって、それが出来ていない者の言葉は、幾らそれらしく引用されていても、非常に軽い。逆に、出来ている者の言葉は、どれほどに陳腐でも、重い。それはつまり、無上菩提を演説する師こそが、僧侶だということだ。
釈迦牟尼仏のいはく、無上菩提を演説する師にあはんには、種姓を観ずることなかれ、容顔をみることなかれ、非をきらふことなかれ、行をかんがふることなかれ。ただ般若を尊重するがゆえに、日日に百千両の金を食せしむべし。天食をおくりて供養すべし、天華を散じて供養すべし。日日三時礼拝し恭敬して、さらに患悩の心を生ぜしむることなかれ。かくのごとくすれば、菩提の道、かならずところあり。
『正法眼蔵』「礼拝得髄」巻
その人の生まれ、顔、そして非行の有無などをもって、「無上菩提」を測ってはならない。しかし、世間の人は、往々にして「良い仏教者」の基準を、そこに置いてしまう。だから、日本の伝統仏教は、力を失ったという評判になってしまうのだ。拙僧自身は、そのような世間の評判に耳を貸せる程、「俗擦れ」していないので、ただ笑い飛ばしてしまうのみだが、しかし、それもこれも、橋田先生の言葉などから、その想いを汲み取っているからである。よって、多生の見た目などを気にすることはなくなった。それよりも、「真実の試料」を掴んで、その中で探究を進めた方が、よほどためになるからである。いや、「比較にならない」というのが正しい。
拙僧自身、ようやく最近、手元に橋田先生の著作が揃ってきたから、今後、ブログの記事を書くときにも、影響していくとは思うけれども、その想いの共有は、早急に行うべきであると思う。そして、それは同時に自らの学びの方向性にも、良い影響を与えてくれると信じている。
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