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お金の掛からない人生と禅

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こんな記事があった。

・【“お金に困っている人は、えてしてお金がかかる”−livedoorBLOGOS

世間には、金銭の管理が出来ない人がいるっていう話である。特に、この一文の作者は、精神保健福祉の分野に関わりのある人のようで、ただの無駄遣いという意味では無く、病的に金銭管理が出来ない人を指している。だが、拙僧はそれを、一般化した形で考えていきたい。先のリンク先では、金銭管理が出来ない人を見ながら出て来た言葉が、「お金に本当に困っている人は、えてしてお金がかかる」という話らしい。いわば、世の中でお金が困っている人というのは、収入が少ない人、を意味するのではなくて、使い方に問題がある人、ということらしい。こういうと、昨今の不景気で、収入が減っているからお金が入ってこないことが大変だ、という人が必ず出て来ると思う。

しかし、収入が減ったのに、自分の生活が変わらないから、「大変になる」のである。つまり、収入が減るのに合わせて縮小できない、低下できない「生活のレベル」があることを自覚出来ていない人は収入が減ったことを問題視するのである。それでは、どのような生き方が可能だろうか?拙僧ども、曹洞宗で古来から重んじられている文脈に『祇園正儀』というのがある。これは、道元禅師が『正法眼蔵』「行持」巻で引用された、芙蓉道楷禅師の言葉のみを抜き出したものだが、それに以下のような一文がある。

唯だ本院の荘課、一歳の所得をもって、均しく三百六十分と作し、日に一分を取って之を用い、更に人に随って添減せず。以て飯に備うべきには則ち飯と作し、飯と作すに足らざれば則ち粥と作し、粥と作すに足らざれば則ち米湯と作すべし。新到の相見は、茶湯のみ、更に煎点せず。唯だ一茶堂を置いて、自ら去きて取用す。務めて縁を省き、専一に弁道せんことを要す。

芙蓉道楷禅師は、年間収入がある程度定まっていた状況を受けつつ、もし、修行僧が増減したとしても、1日に使う米の量を増減させないといっている。普通なら、人が増えれば、1日に使う米の量を増やし、その逆なら減らしそうなものだが、もう、完全に諦めている。いや、諦めというのはおかしいかもしれない。ここにこそ、現代的な状況に於ける収入増減に対応する鍵があるように思う。

視点の操作ではあるが、ここで芙蓉道楷禅師自身は、自分の米の量について、一切考慮していない。飯に出来ないのなら粥で、粥に出来ないのなら米湯で良いといっている。或る意味、お金の掛からない人生というのは、この自分自身へのこだわりの無さでもって、初めて実現可能なのであろう。つまり、もし「お金の掛からない人生」を、禅の教えから求めるとすれば、この自分へのこだわりの無さを自覚すべきだという結論に至る。結局、お金を使ってしまう人の多くは、「一度欲しいと思ったら諦められない」人であったり、「手元にあれば全部使ってしまう」人であったりするようだ。

しかし、芙蓉道楷禅師は淡々と、1年間の収入を360等分して、1日1日生きると述べている。そして、多くの場合、このような無味乾燥な生活には耐えられないのではないか?芙蓉禅師や、その会下の弟子達が何故それに耐えられたのか?それは、「務めて縁を省き、専一に弁道せんことを要す」とあるように、仏道修行していたからだ。仏道を得るという大目標の前に、日常の多少の苦労など吹き飛んでしまう。ということは、ただ節約した人生を送れば良い、というだけではなく、その背後に、大きな目標を持っておけば、より充実するということである。その目標も、出来ることなら、仏教に於ける「誓願」に近い方が良さそうだ。つまり、自分だけの幸福を願うのではなく、他者の幸福を以て、自らの幸福にするというような生き方だ。

如何であろうか?余りに現状からかけ離れすぎているのかな?

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これまでの読み切りモノ〈曹洞宗7〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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