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道元禅師読みの道元禅師知らず

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元々は、「『論語』読みの『論語』知らず」である。如何にも『論語』を読んでいますというような顔をしている人が、結局は文章の些末なところに引っかかって、その本質を掴めていないことを揶揄する俗諺である。さて、とりあえず以下の一文をご覧いただきたい。

『デカルト選集』のような、立派な画期的な訳業が現われても、やはり「デカルト読みのデカルト知らず」がぞくぞく発生しているだけであるのは情けない。私思うに、ものを考える人間は人の書いた書物などをあんまり読んでいてはいけないのだ。何のメチエももたず、ただあたまの運転の法則だけに頼っているからこんなことになるのである。
    林達夫氏「開店休業の必要」、『歴史の暮方』中公文庫、22頁

林氏が昭和15年1月に発表したエッセイである。この一文が或る程度知られているのは、林氏による小林秀雄氏に対する評価と、小林氏による西田幾多郎博士への評価への、林氏からの批判を知るために必須の一文が記載されているためである。林氏は、小林氏に対して非難めいたことを言い、小林氏による西田博士評は当たっていないと喝破する。しかし、その林氏も、現在の日本哲学に対し、何らかの展望を持っているわけでは無いという。時代を考えてみれば、多分にその閉塞感に満ちた時代であったのだろうと思われ、結果、上のような一文に繋がる。

「ものを考える人間は人の書いた書物などをあんまり読んでいてはいけない」という時、これは或る人を肯定せんがための言葉かとも思った。それは西田博士である。西田博士は、読書については、思想家の思想の全体を知るのでは無くて、その人の持つ骨、要するに肝心なところを正しく掴んでおけば良いと考えていたようで、一から十まで全てを読むような人では無かったという。一例として、小坂国継先生が「道元と西田幾多郎」(岩波現代文庫『西田哲学の基層』所収)で指摘されているが、西田博士が道元禅師の文章を引くという場合、基本「現成公案」巻に見える幾つかの文節のみであって、それを繰り返し繰り返し引用している。

これは、西田博士が結局、他人の文章については、自分の思想を引き立てるために引用されるのであって(小坂先生前掲同論)、思想史的に探究することを目的にしていたわけでは無いことを意味しよう。これと、林氏が指摘する内容は同じであって、デカルトのような文章については、それこそ思考法までをも教えてくれるような体系的な著作ではあるが、これを読んだだけで分かったつもりになってしまい、結局自ら「哲学」することが無いことを問題視している。

さて、ここまで論じた上で、今回の本題に入りたいが、やはり、我々からすれば、道元禅師に於ける『正法眼蔵』読解についても、同じ問題が起きうると思っている。そもそも、道元禅師の著作は、読むことが同時に我々自身の探究になり、物の見方などを深めてくれる実践的著作であるが、これをただの文学作品などとして読む人がいる。そして、それでは意味が無いのである。まさに、道元禅師読みの道元禅師知らずである。

読んだならば、同時に学仏道人の血肉にならねばならない。頭で理解することが求められているのでは無い。この身体で仏道を掴むことが、そのまま道元禅師を知ることとなるのだ。禅では、仏を知るのに、その教えからでは無くて、その体験から知られるという。だから、仏の教えが書かれた経典などは、尻を拭く紙程度の扱いである。ただ、それはいたずらに仏を貶めるのでは無くて、そもそも仏がどのような境地で法を説いていたかを探るための実践である。我々には、経典読みの経典知らずは要らない。道元禅師読みの道元禅師知らずも要らない。

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