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如説修行の大切さ

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「如説修行」という言葉があります。どうやら、用語としては『阿含経』などの原始仏典から確認できるようですし、実際のところ、意味としては、何かの教えを聞いたらば「説の如く修行せん」ということでございます。よって、ただ教えを聞いて、その教えのように修行すれば良い、という話なのですが、明恵上人、その当時の人のあり方に、大いに疑問を持っていたようです。

末代の(人の)浅ましさというのは、「如説修行」はついでのことになってしまって、良い内容の一部の文字を読み終わったら、また別の文を読みたがるのみで、ただ読み積もるばかりを修行だとして、何かの役立てようとしている。「如説修行」の心がないのである。戯論や妄想の方には心が惹かれ、実際に役立つことにはめんどくさそうにしている。これなどを以て、仏には成るはずもない我が心について、そうすべきなのである。
    『梅尾明恵上人遺訓』、岩波文庫『明恵上人集』207頁、拙僧ヘタレ訳

結局、読むだけ、知るだけ、分かるだけ、という頭でっかちな様子でもって、仏道修行だと勘違いしている人が多いというのです。これ、本当に鎌倉時代のことかな?なんだか今も同じ気がしますけどどうでしょうかね?いや、実際、曹洞宗でも、在家信者でありながら、坐禅会などに足を運ぶ人は、まだ「マシ」なのかもしれません。しかし、そういう修行が無い人などは、一応、信心を大切に、とはいいつつも、実際のところは、いい加減な修行ばかりをしている人もいるのではないかと憂慮いたします。もちろん、「いや、私は違います」と思っている人は、その気持ちを大切に、これからも修行に励んでいただきたいと思います。

「如説修行」、拙僧などは「信受奉行」という言葉に置き換えて考えてみたいところですけれども、要するに、教えを教えのままにしておくのが、「もったいない」と思うんですね。例えば、道元禅師が『大般涅槃経』を引用されて、「一切衆生、悉有は仏性なり」と、『正法眼蔵』「仏性」巻で仰ったというのなら、それがどういう事実なのか?自分で確かめ、経験してみたくて仕方ないのです。無論、その時々で、モノの考え方をちょっとだけ変えれば、すぐに経験可能なこともありますし、何ヶ月も、何年もかかって、漸く経験可能なこともありますから、一概にはいえませんが、しかし、自分で確認してみることは、とても大切であろうと思うのです。その時に、全てが戯論に堕落し掛かっている仏祖の言葉は、真実のモノとして会得できるのです。

言葉が、言葉で完結し、それで終わっているのなら、我々自身のところにまで、仏祖の教えが伝わるはずはありません。良い教え、良い言葉は、世に遍満しています。しかし、それがあるということだけで終わってしまうから、言葉がいつまでも自分のモノとならず、自分を変えず、言葉の上で滑るのです。

 むかし、則公監院といふ僧、法眼禅師の会中にありしに、法眼禅師とふていはく、則監寺、なんぢわが会にありていくばくのときぞ。
 則公がいはく、われ師の会にはむべりて、すでに三年をへたり。
 禅師のいはく、なんぢはこれ後生なり、なんぞつねにわれに仏法をとはざる。
 則公がいはく、それがし、和尚をあざむくべからず。かつて青峰の禅師のところにありしとき、仏法におきて安楽のところを了達せり。
 禅師のいはく、なんぢいかなることばによりてか、いることをえし。
 則公がいはく、それがし、かつて青峰にとひき、いかなるかこれ学人の自己なる。青峯のいはく、丙丁童子来求火。
 法眼のいはく、よきことばなり。ただし、おそらくはなんぢ会せざらむことを。
 則公がいはく、丙丁は火に属す、火をもてさらに火をもとむ、自己をもて自己をもとむるににたり、と会せり。
 禅師のいはく、まことにしりぬ、なんぢ会せざりけり。仏法、もしかくのごとくならば、けふまでにつたはれじ。
    道元禅師弁道話

有名な、法眼文益と、報恩玄則という僧達による問答、「丙丁童子来求火」の公案です。玄則は既に自分自身が、青峰和尚という人の下で、「丙丁童子来求火」の教えを聞いて、悟ったと思っているのです。つまり会得したと思っているのです。しかし、にもかかわらず、それは言葉を知って満足しただけで、自分を変えず、自分をその言葉に相応しい活動に導いてはいませんでした。それは何が相応しいのでしょうか?結局、彼は、属性ということでもって、「丙丁童子」と「火」と同じモノであると考え、この教えを「自己をもて自己をもとむる」という言葉に置き換えてしまいました。

しかし、ここに重大な誤りがあったといえます。つまり、結局のところ、「丙丁童子来求火」の「火」が、「丙丁童子」にとって、「外」にあると気付いていないのです。この場合、「火」とは、つまり法であり、菩提であり、菩提を体現した「師」であるとも取るべきなのです。結果、丙丁童子である玄則は、「自己満足(或いは、道元禅師はこれを「自己即仏」の後で表現されます)」に陥るべきなのではなく、どこまでも、火(法、師)を求める学人らしく、師匠に向かって、突撃していくべきだったのです。要は、言葉で滑って、その実際の姿を、自分の身心を使って表現し切れていなかったのです。

まさに、「如説修行」をせずに、「言葉」を得ただけで喜ぶ愚か者であったといえましょう。玄則は、法眼の良き手立てによって、「如説修行」し、大悟しましたが、読者の皆さまは如何でしょうか?無論、拙僧自身も油断できませんが、是非、「如説修行」し、頭でっかちな仏法とはおさらばしたいモノです。

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