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鈴木正三の「陀羅尼のススメ」

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江戸時代初期の鈴木正三道人がこんなことをいっていました。早速見てみましょう。

 或る日示していわれるには「(仏道修行の)初心者の人は、まず信心(が起きるため)の祈りをし、呪文の陀羅尼を繰り返して、身心を尽きさせてしまうのが良いのである。
 或いは八句の陀羅尼を十万返も、二十万返も、三十六万返も唱えて、それまでの人生で作ってきた罪を尽くせば、志も進んで、真実(の信心)も起きるだろう。
 まず、御坊主の立場を捨てて、ひたすらに土のようになって励むべきである。そして、源長老に向かっていわれるには「御長老も、『楞厳呪』をせめて一蔵読まれたら良い。少々のことでは、御長老の立場を捨てられないでしょうから」。
 在家の男女も、分に随った陀羅尼を唱え、念仏をして、師の院にて塔婆を立てて供養した。これにより徳を得る者は数を知らないほどである。
    『驢鞍橋』上−16、拙僧ヘタレ訳

鈴木正三も、決して特定の教義の中で汲々としているような人ではなく、どのような教えであってもそれが良いと思ったら、実践をしてみせた人のようですが、坐禅は仏像をイメージして行うような観法になっていますし、今度は陀羅尼が良いそうです。でも、確かに、陀羅尼のような短い言葉を、限られた時間で繰り返し唱えると、内心穏やかになることがありますけどね。ですから、禅定のイメージに近いことをしたいのなら、坐禅ではなくて、陀羅尼や読経で十分であるとも思います。問題は繰り返される単純作業ということなのです。

ただ、それが日常のワケの分からない言葉であれば、それ自体が持つイメージが、穏やかなる内心に影響して、却って落ち着かない気がしますが、何はなくても仏・菩薩などを湛える言葉としての陀羅尼であれば、それら仏などのイメージが良い方向に影響して、それら仏の境地に近付くことも可能かもしれません。そして、仏の境地への近づきをして、「信心」といわれると思います。

また、正三が、陀羅尼を繰り返し唱えることによって、罪が尽きると述べていますが、これは「実相懺悔」の教えに近いものでしょう。我々にも、様々な懺悔法があります。礼拝などの儀式を取り入れて行われる懺法もありますし、場合によっては観音菩薩や『法華経』の功徳に頼る場合もあります。或いは、懺悔文を唱えて行う懺悔法もあります。それらはほとんど「事相の懺悔」になります。しかし、もっと内面的な直観を用いて行われる懺悔法もあります。坐禅をして、自己を空自て、一切存在が皆、その実体の無きことを知ることにより、自らの罪についても、同じように実体の無さを知るわけです。その知った時、直ちに懺悔は成就します。

よって、陀羅尼を繰り返し唱えることによって、実相懺悔の境地に近いものを作り出し、そして懺悔することも可能なのではないかと思うわけです。勿論、同時に仏・菩薩を讃えるわけですから、その功徳を回向することによっての懺悔も可能になるかもしれません。そう考えてみますと、陀羅尼の修行は決して損にはなりません・・・まぁ、損得の話ではないでしょうけど。ということで、皆さまも毎朝100遍の陀羅尼なんて如何でしょう?

お念仏ですと、不断念仏の関係で、京都に「百万遍」なんていう地名になるほど有名ですが、陀羅尼でも「百万遍」が出来たら良いのに・・・いや?もうあるのか?

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