曹洞宗では、三仏忌の一として釈尊涅槃会を毎年2月15日に行っており、我々は例えば、この涅槃会を前に、次のような行持を行います。
二月一日・読遺教経
涅槃会の法供養を修するため、本日より十四日まで晩課のときに遺教経を読誦する。知殿あらかじめ涅槃像を室中に掛け、香華灯燭を弁備する。殿鐘上殿、住持入堂し上香、普同三拝して着座、維那、挙経する。遺教経終わって、舎利礼文を大衆合掌して同誦すること三遍。一唱ごとに頂礼、三唱三礼。次に普回向、普同三拝して散堂する。
『曹洞宗行持軌範』「年分行持」参照
曹洞宗寺院では、毎年2月1日〜14日まで、晩課にて『遺教経(詳しくは『仏垂般涅槃略説教誡経』)』を読誦します。元々、晩課というのは、固定された読誦経典があるわけではなく、融通が効く行持でありました。ですので、それを涅槃会仕様に変更するのです。そして、この釈尊涅槃会を、より強く想うために、室中(本堂の一室)に、涅槃像(涅槃図)を掛けます。沙羅双樹の森に横たわる釈尊の姿を描いたもので、人間のみならず多くの生き物が、その死を悼んで集まっている絵像です。全てではないにせよ、涅槃図を掛けるお寺さんは少なくないと思われますので、よろしければ有縁のお寺さんに聞いてみて、ご覧になると良いと思います。
さて、今日はその涅槃会の前日であり、まぁ、世間ではバレンタインデーとかいって、チョコレートが飛び交う一日になるらしいですが、我々からすれば大事なのは涅槃会。ということで、涅槃会に因んで、先に挙げた『遺教経』から学んでみようと思います。この経典は、いわゆる「涅槃部」に該当し、仏陀釈尊の最期の様子を伝える内容です。もしかすると、世間の方々はあの中村元先生が訳された南方仏教の『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)を読まれる場合もあると思いますが、実際のところ、仏陀の最期の様子は、その宗派によって違っている場合が多いと思います。
我々は、道元禅師がこの『遺教経』から「八大人覚」を引用して説示されたことなどもあり、この『遺教経』を用いる場合が多いと思われます。他にも、禅宗の灯史などに載った様子や、或いは、禅僧が詠んだ漢詩などを元に涅槃会を想像すると思われます。当然、先の南方仏教のそれとは随分と違っています。そこで伝えられる釈尊最後の言葉は、以下の通りです。
汝等比丘、常にまさに一心に勤めて、出道を求むべし。一切世間の動不動の法は、皆是れ敗壊不安の相なり。汝等且く止みね、復た語いうことを得ること勿れ。時、将に過ぎなんと欲す、我れ滅度せんと欲す。是れ我が最後の教誨する所なり。
このようになっています。中心的な教えは、一切世間の動法も不動法も、結局は「敗壊不安の相」なのであり、それらに把われることなく、一心に勤めて、出道を求めるべきだというのです。この時の「出道」とは、六道輪廻から出ることであって、正しく縁起の法を悟り、まさに輪廻する一切の原因を排除しうる境涯を得ることを意味しています。結局は、『ブッダ最後の旅』でも、ブッダは端的に、この世は無常なのだから、怠らずに励めといったわけですが、遺言としては、同じようなことが書かれています。
それは、この『遺教経』自体がそうだと言ってしまっても良いわけです。ところで、有名な話ですけれども、この経典に於いて、仏陀が自分の入滅後、遺された弟子達が如何にして修行をしていくべきかを説きます。
・汝等比丘、我が滅後に於いて、まさに波羅提木叉を尊重し、珍敬すべし。
・戒は是れ正順解脱の本なり、故に波羅提木叉と名づく。此の戒に因れば、禅定及び滅苦の智慧を生ずることを得。是の故に比丘まさに浄戒を持りて、毀欠せしむること勿るべし。
・若し人戒を持てば、是れ則ち、能く善法あり。若し浄戒無ければ、諸善の功徳、皆生ずることを得ず。是を以てまさに知るべし。戒はすなわち第一安穏功徳の所住処たることを。
だいたいこのようなところでしょうか。前半部分で特に戒について論じている箇所を箇条書き的に引用すると、こうなります。まずは、仏陀自身が出家の弟子達に向けて、自分の滅後には戒を尊重することを主張します。更に、戒とは、それに順えば解脱を得られるといいます。戒に因って、禅定、そして智慧が生じるのです。また、戒を保つことによって、善き法を実践することが出来、それによって善い功徳を得ます。この善い功徳が積もり積もって、解脱に至ります。
そもそも、『遺教経』で説く解脱とは、自分自身の心を能く統御するために精進し、その上で自分の心を能く折伏すべきだというのです。能く調えられた自己をもって、この世界の様子を正しく見る時、要するにこの世界とは、自分自身の一切の希望を受け付けることがないほどに、無常であるという結論に至ります。無常であるからこそ、そこから一刻も早く遠離せよ、というわけですが、ただ遠離しても輪廻を繰り返すだけなので、正しい心の状態を獲得し、「解脱」すべきだというわけです。例えば先に挙げた「八大人覚」もまた、その1つです。これは、大人=仏陀が実践すべき徳目です。能く、八大人覚の一部(例えば、少欲・知足など)を、一般の人に向けて説く人がおりますが、これは元々出家者向けの教えであるので、それはカテゴリーミステイクも良いところです。我々は一般の人には、むしろ、善いことをして、善い利益(世俗的なそれ)を得て、子々孫々繁栄するように努力せよ、と説かねばなりません(実際に、禅宗系で使う祈祷の回向文は、こればかりが目立つ)。
そう、このような記事を書いていますが、まずはあくまでも「比丘(比丘尼)」向けの教えである事実を、我々は知らなければならないのです。まぁ、日本では出家と在家の区別が、近世の段階で既にかなり怪しく、近代に入りそれはますます酷くなりましたが、しかし、こういうご時世です。正しき知識の獲得は容易であり、仏陀の教えも、正しく出家者向けと在家者向けとで分けておく必要があるといえましょう。世間に於ける生業を持ち、その中で三宝への帰依を明らかにした人と、若干宗旨を違えていても(仏陀の下には、「バラモン」の教えを聞きに来る者が多い)、専門的に修行をしていこうと思う人とでは、自ずと実践できる内容も、或いは、聞き入れる教えの内容も違うのです。それを自覚する必要があります。しかし、差別ではなくて、悪平等の否定を意味しています(かつても【在家仏教の隘路?久保田展弘氏『仏教の身体感覚』】という記事を書いています)。
明日は涅槃会になるわけですが、まさに、仏陀の涅槃を得るための実践をするべきなのか?それとも、そのような涅槃の様子の一端を知って、仰ぎ信じるべきなのか?それは記事を読むそれぞれの人の立場で違うと思います。そして、違っていて良いのです。
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二月一日・読遺教経
涅槃会の法供養を修するため、本日より十四日まで晩課のときに遺教経を読誦する。知殿あらかじめ涅槃像を室中に掛け、香華灯燭を弁備する。殿鐘上殿、住持入堂し上香、普同三拝して着座、維那、挙経する。遺教経終わって、舎利礼文を大衆合掌して同誦すること三遍。一唱ごとに頂礼、三唱三礼。次に普回向、普同三拝して散堂する。
『曹洞宗行持軌範』「年分行持」参照
曹洞宗寺院では、毎年2月1日〜14日まで、晩課にて『遺教経(詳しくは『仏垂般涅槃略説教誡経』)』を読誦します。元々、晩課というのは、固定された読誦経典があるわけではなく、融通が効く行持でありました。ですので、それを涅槃会仕様に変更するのです。そして、この釈尊涅槃会を、より強く想うために、室中(本堂の一室)に、涅槃像(涅槃図)を掛けます。沙羅双樹の森に横たわる釈尊の姿を描いたもので、人間のみならず多くの生き物が、その死を悼んで集まっている絵像です。全てではないにせよ、涅槃図を掛けるお寺さんは少なくないと思われますので、よろしければ有縁のお寺さんに聞いてみて、ご覧になると良いと思います。
さて、今日はその涅槃会の前日であり、まぁ、世間ではバレンタインデーとかいって、チョコレートが飛び交う一日になるらしいですが、我々からすれば大事なのは涅槃会。ということで、涅槃会に因んで、先に挙げた『遺教経』から学んでみようと思います。この経典は、いわゆる「涅槃部」に該当し、仏陀釈尊の最期の様子を伝える内容です。もしかすると、世間の方々はあの中村元先生が訳された南方仏教の『ブッダ最後の旅』(岩波文庫)を読まれる場合もあると思いますが、実際のところ、仏陀の最期の様子は、その宗派によって違っている場合が多いと思います。
我々は、道元禅師がこの『遺教経』から「八大人覚」を引用して説示されたことなどもあり、この『遺教経』を用いる場合が多いと思われます。他にも、禅宗の灯史などに載った様子や、或いは、禅僧が詠んだ漢詩などを元に涅槃会を想像すると思われます。当然、先の南方仏教のそれとは随分と違っています。そこで伝えられる釈尊最後の言葉は、以下の通りです。
汝等比丘、常にまさに一心に勤めて、出道を求むべし。一切世間の動不動の法は、皆是れ敗壊不安の相なり。汝等且く止みね、復た語いうことを得ること勿れ。時、将に過ぎなんと欲す、我れ滅度せんと欲す。是れ我が最後の教誨する所なり。
このようになっています。中心的な教えは、一切世間の動法も不動法も、結局は「敗壊不安の相」なのであり、それらに把われることなく、一心に勤めて、出道を求めるべきだというのです。この時の「出道」とは、六道輪廻から出ることであって、正しく縁起の法を悟り、まさに輪廻する一切の原因を排除しうる境涯を得ることを意味しています。結局は、『ブッダ最後の旅』でも、ブッダは端的に、この世は無常なのだから、怠らずに励めといったわけですが、遺言としては、同じようなことが書かれています。
それは、この『遺教経』自体がそうだと言ってしまっても良いわけです。ところで、有名な話ですけれども、この経典に於いて、仏陀が自分の入滅後、遺された弟子達が如何にして修行をしていくべきかを説きます。
・汝等比丘、我が滅後に於いて、まさに波羅提木叉を尊重し、珍敬すべし。
・戒は是れ正順解脱の本なり、故に波羅提木叉と名づく。此の戒に因れば、禅定及び滅苦の智慧を生ずることを得。是の故に比丘まさに浄戒を持りて、毀欠せしむること勿るべし。
・若し人戒を持てば、是れ則ち、能く善法あり。若し浄戒無ければ、諸善の功徳、皆生ずることを得ず。是を以てまさに知るべし。戒はすなわち第一安穏功徳の所住処たることを。
だいたいこのようなところでしょうか。前半部分で特に戒について論じている箇所を箇条書き的に引用すると、こうなります。まずは、仏陀自身が出家の弟子達に向けて、自分の滅後には戒を尊重することを主張します。更に、戒とは、それに順えば解脱を得られるといいます。戒に因って、禅定、そして智慧が生じるのです。また、戒を保つことによって、善き法を実践することが出来、それによって善い功徳を得ます。この善い功徳が積もり積もって、解脱に至ります。
そもそも、『遺教経』で説く解脱とは、自分自身の心を能く統御するために精進し、その上で自分の心を能く折伏すべきだというのです。能く調えられた自己をもって、この世界の様子を正しく見る時、要するにこの世界とは、自分自身の一切の希望を受け付けることがないほどに、無常であるという結論に至ります。無常であるからこそ、そこから一刻も早く遠離せよ、というわけですが、ただ遠離しても輪廻を繰り返すだけなので、正しい心の状態を獲得し、「解脱」すべきだというわけです。例えば先に挙げた「八大人覚」もまた、その1つです。これは、大人=仏陀が実践すべき徳目です。能く、八大人覚の一部(例えば、少欲・知足など)を、一般の人に向けて説く人がおりますが、これは元々出家者向けの教えであるので、それはカテゴリーミステイクも良いところです。我々は一般の人には、むしろ、善いことをして、善い利益(世俗的なそれ)を得て、子々孫々繁栄するように努力せよ、と説かねばなりません(実際に、禅宗系で使う祈祷の回向文は、こればかりが目立つ)。
そう、このような記事を書いていますが、まずはあくまでも「比丘(比丘尼)」向けの教えである事実を、我々は知らなければならないのです。まぁ、日本では出家と在家の区別が、近世の段階で既にかなり怪しく、近代に入りそれはますます酷くなりましたが、しかし、こういうご時世です。正しき知識の獲得は容易であり、仏陀の教えも、正しく出家者向けと在家者向けとで分けておく必要があるといえましょう。世間に於ける生業を持ち、その中で三宝への帰依を明らかにした人と、若干宗旨を違えていても(仏陀の下には、「バラモン」の教えを聞きに来る者が多い)、専門的に修行をしていこうと思う人とでは、自ずと実践できる内容も、或いは、聞き入れる教えの内容も違うのです。それを自覚する必要があります。しかし、差別ではなくて、悪平等の否定を意味しています(かつても【在家仏教の隘路?久保田展弘氏『仏教の身体感覚』】という記事を書いています)。
明日は涅槃会になるわけですが、まさに、仏陀の涅槃を得るための実践をするべきなのか?それとも、そのような涅槃の様子の一端を知って、仰ぎ信じるべきなのか?それは記事を読むそれぞれの人の立場で違うと思います。そして、違っていて良いのです。
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