今回から、またちょっと連載記事のタイトル変更。もうそろそろこの連載自体が終わるので、タイトルで悩むことも無くなる予定。さておき、今回からは、江戸時代初期の曹洞宗の僧侶である損翁宗益禅師(1649〜1705)のご家族について見ていきたいと思います。禅僧が、自分の親兄弟を養った話というのは、決して珍しくなく(一例:曹洞宗大本山永平寺第三世・徹通義介禅師が養母堂を建てた話)、よって、損翁禅師の場合を見ていきたいと思うのです。
お師匠さまが、貞甫尼の庵に赴かれた。貞甫尼はお師匠さまの姉に当たる。
その時、烏が雀の巣を壊す様子を見て、侍者の益潭に、(烏を)追い払わせた。益潭は、石ころを投げたが、烏は去ろうとしなかった。
益潭は、「何とも憎たらしいやつだ、打ち殺してしまえ」と、再び石ころを投げつけたところ、烏は直ぐに飛び去った。
益潭は、「嗚呼、当たらなかった。とても残念だ」といった。
お師匠さまはそれを聞いて、益潭に教えて言われるには、「烏を追い払って、雀の子を救うのは慈悲である。しかし、烏を打ち殺すというのは、俗人が感情にまかせて行う仇討ちと同じである。たとえ、烏が雀を殺しても、仏法の中では、(復讐として)烏を殺して良い道理は無い。動物たちがお互いに殺し合うのは、過去の行いの結果である。雀と烏と、宿縁があるのかもしれないが、今は知ることが出来ない。
そうであるのに、傍観者が烏を殺せば、雀を救おうとして、新たに仇を買うことになるだろう。『梵網経』では、『親を殺されても、また報いを加えることがあってはならない』(第十軽戒)といっている。汝は、良く慎んで、我が教えを憶えておくようにせよ、云々」と言われた。
余(=面山師)も、その時に同じく庵にいて、はなはだ感銘を受けた。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
貞甫尼というのは、本文中にある通り、損翁禅師の実姉だったようで、しかも、どういう事情かは分からないのですが、出家し泰心院の近くに住んでいたようです。損翁禅師の出身は仙台では無くて、山形県の米沢であったとされているのですが、想像するに、常に家族一緒に移転して歩いたわけでは無いのでしょうが、損翁禅師が住持として名を馳せたときに、側に呼んだ可能性が高いと思われます。
また、江戸時代は徐々に儒教的観念が仏教界にも浸透してきた時代でありますが(同時に反発もされます)、大檀那である伊達家からしても、損翁禅師が家族を養い共に居ることについて、それ程大きな問題視はしなかったものと思われます。でなければ、僧録にいられるはずがありませんし、恥ずべきことなら、面山師がこのような記録に残すはずがありません。それを勘案すべきなのです。
さて、その損翁禅師の実姉の下に行ったとき、姉の庵の近くでカラスが雀の巣を壊してしまったようなのです。まぁ、良くありがちな話です。そこで、損翁禅師が雀を気の毒に思ったのか、お就きの僧として着いていた侍者の益潭に、カラスを追い払わせようとし、益潭は石を投げて追い払おうとしました。益潭はまだまだ若い僧だったのでしょう。追い払うことより、いつの間にか、烏を打ち殺すことを考えてしまっていたようで、その様子から損翁禅師が訓示を垂れました。
内容としては結局、安易な正義の暴走を諫めた感じでしょうか。確かに、大きなカラスが、雀の子を襲うのは見ていて可哀想ですし、雀の側に立って守ってあげたくなるのは人情です。しかし、その守り方にも問題があります。それは、仇を買うことが無いようにしなくてはならないということです。仇討ちの連鎖は、ただの不幸の連鎖に過ぎません。慈悲を垂れるべき仏教徒として、それは避けねばなりません。損翁禅師は、その基本を益潭に伝えたのです。そして、我々はその教えを、【『梵網経』「第十軽戒」】から学ぶのです。
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お師匠さまが、貞甫尼の庵に赴かれた。貞甫尼はお師匠さまの姉に当たる。
その時、烏が雀の巣を壊す様子を見て、侍者の益潭に、(烏を)追い払わせた。益潭は、石ころを投げたが、烏は去ろうとしなかった。
益潭は、「何とも憎たらしいやつだ、打ち殺してしまえ」と、再び石ころを投げつけたところ、烏は直ぐに飛び去った。
益潭は、「嗚呼、当たらなかった。とても残念だ」といった。
お師匠さまはそれを聞いて、益潭に教えて言われるには、「烏を追い払って、雀の子を救うのは慈悲である。しかし、烏を打ち殺すというのは、俗人が感情にまかせて行う仇討ちと同じである。たとえ、烏が雀を殺しても、仏法の中では、(復讐として)烏を殺して良い道理は無い。動物たちがお互いに殺し合うのは、過去の行いの結果である。雀と烏と、宿縁があるのかもしれないが、今は知ることが出来ない。
そうであるのに、傍観者が烏を殺せば、雀を救おうとして、新たに仇を買うことになるだろう。『梵網経』では、『親を殺されても、また報いを加えることがあってはならない』(第十軽戒)といっている。汝は、良く慎んで、我が教えを憶えておくようにせよ、云々」と言われた。
余(=面山師)も、その時に同じく庵にいて、はなはだ感銘を受けた。
面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳
貞甫尼というのは、本文中にある通り、損翁禅師の実姉だったようで、しかも、どういう事情かは分からないのですが、出家し泰心院の近くに住んでいたようです。損翁禅師の出身は仙台では無くて、山形県の米沢であったとされているのですが、想像するに、常に家族一緒に移転して歩いたわけでは無いのでしょうが、損翁禅師が住持として名を馳せたときに、側に呼んだ可能性が高いと思われます。
また、江戸時代は徐々に儒教的観念が仏教界にも浸透してきた時代でありますが(同時に反発もされます)、大檀那である伊達家からしても、損翁禅師が家族を養い共に居ることについて、それ程大きな問題視はしなかったものと思われます。でなければ、僧録にいられるはずがありませんし、恥ずべきことなら、面山師がこのような記録に残すはずがありません。それを勘案すべきなのです。
さて、その損翁禅師の実姉の下に行ったとき、姉の庵の近くでカラスが雀の巣を壊してしまったようなのです。まぁ、良くありがちな話です。そこで、損翁禅師が雀を気の毒に思ったのか、お就きの僧として着いていた侍者の益潭に、カラスを追い払わせようとし、益潭は石を投げて追い払おうとしました。益潭はまだまだ若い僧だったのでしょう。追い払うことより、いつの間にか、烏を打ち殺すことを考えてしまっていたようで、その様子から損翁禅師が訓示を垂れました。
内容としては結局、安易な正義の暴走を諫めた感じでしょうか。確かに、大きなカラスが、雀の子を襲うのは見ていて可哀想ですし、雀の側に立って守ってあげたくなるのは人情です。しかし、その守り方にも問題があります。それは、仇を買うことが無いようにしなくてはならないということです。仇討ちの連鎖は、ただの不幸の連鎖に過ぎません。慈悲を垂れるべき仏教徒として、それは避けねばなりません。損翁禅師は、その基本を益潭に伝えたのです。そして、我々はその教えを、【『梵網経』「第十軽戒」】から学ぶのです。
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