今日から、新潟県新潟市内にある大榮寺専門僧堂で二泊三日の研修会に出席しますので、更新は事前投稿にしておきます。
前回の【(12f)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。
『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今日も「一 浄土房遁世の事」を見ていきます。これは、遁世し、往生しようとする人達の様々なドラマを紹介します。今回は、仏教では無いところから、我々の心のありようを考えている文脈を紹介します。
老子がいうには「道徳がある人は、陸を歩いて行っても、じ虎(牛の一種)に心を遣う必要が無く、陣に入っても甲冑を着けた兵と刃を交えることは無い」(『老子道徳経』第50章)といっている。心は、大道を心に修行して妄念が無く、身にも大道を修行し、罪が無い者は、身に死が至る状況は無くなる。死が至る状況が無くなれば、殺されることも無い。眼で妄りに見て、乃至、心でも妄りに愛し、手にも妄りに持ち、足でも妄りに踏む時には、皆、既に生から死に至る姿なのである。
そうであれば、人を殺すということは、既に死んでいるところを殺すのである。しかし、総じて心に咎が無く、身にも誤りが無く、死に至る状況で無ければ、毒を持つ獣にも犯されず、矢や刃も立たないのである。
拙僧ヘタレ訳
これが、先月もちょっとだけ問題にした、輪廻に至らない人の心境であります。そこで引用されているのは、『老子道徳経』第50章であります。道徳ある人というのは、いわゆる「倫理・道徳」の「道徳」では無くて、宇宙を貫く「道理」の徳が具わった大人物のことをいいます。そういう大人物は、陸を歩いていて、我々に危害を及ぼす虎を恐れず、陣中に入っても兵と諍いを起こさないといっています。それくらい、自然に、周囲の存在と上手くやっていけるのです。いや、上手くやっていこうという意図すらしないほどに、自然と一体となっています。周囲とぶつかる要素が、その大人物の側に無いのです。
これを受けて無住禅師は、輪廻しない心について、「大道を心に修行し、妄念が無い」ということ。同じく、「身にも大道を修行し、罪が無い者」について、「死に至らない」といっています。これは釈尊も「不死の境地」といっていますが、「死」というのは、「生」に対する事象であって、輪廻を前提にした言葉です。ですけれども、「不死」や、「死に至らない」という場合には、いわゆる肉体の死が、生死の死では無くて、「涅槃」に入ることを意味します。涅槃に入れば、解脱が完全に達成され、輪廻しませんので、「死」では無いのです。
無住禅師は、涅槃に入るのだから、殺されることも無いといっています。
しかし、普通の人は、日常的な感覚器官による情報に惑わされて、身口意の三業を妄りに用いることで、生死を繰り返します。そのような生死を繰り返すことが既に決まっている人は、今生きながら、既に死んでいるのです。無住禅師は、「人を殺すことは、既に死んでいるところを殺す」と言っています。しかし、涅槃に入る人は、既に世俗的な殺からも無縁で、老子が説いた大人物の如くに、周囲の事象から超然としているのです。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今日も「一 浄土房遁世の事」を見ていきます。これは、遁世し、往生しようとする人達の様々なドラマを紹介します。今回は、仏教では無いところから、我々の心のありようを考えている文脈を紹介します。
老子がいうには「道徳がある人は、陸を歩いて行っても、じ虎(牛の一種)に心を遣う必要が無く、陣に入っても甲冑を着けた兵と刃を交えることは無い」(『老子道徳経』第50章)といっている。心は、大道を心に修行して妄念が無く、身にも大道を修行し、罪が無い者は、身に死が至る状況は無くなる。死が至る状況が無くなれば、殺されることも無い。眼で妄りに見て、乃至、心でも妄りに愛し、手にも妄りに持ち、足でも妄りに踏む時には、皆、既に生から死に至る姿なのである。
そうであれば、人を殺すということは、既に死んでいるところを殺すのである。しかし、総じて心に咎が無く、身にも誤りが無く、死に至る状況で無ければ、毒を持つ獣にも犯されず、矢や刃も立たないのである。
拙僧ヘタレ訳
これが、先月もちょっとだけ問題にした、輪廻に至らない人の心境であります。そこで引用されているのは、『老子道徳経』第50章であります。道徳ある人というのは、いわゆる「倫理・道徳」の「道徳」では無くて、宇宙を貫く「道理」の徳が具わった大人物のことをいいます。そういう大人物は、陸を歩いていて、我々に危害を及ぼす虎を恐れず、陣中に入っても兵と諍いを起こさないといっています。それくらい、自然に、周囲の存在と上手くやっていけるのです。いや、上手くやっていこうという意図すらしないほどに、自然と一体となっています。周囲とぶつかる要素が、その大人物の側に無いのです。
これを受けて無住禅師は、輪廻しない心について、「大道を心に修行し、妄念が無い」ということ。同じく、「身にも大道を修行し、罪が無い者」について、「死に至らない」といっています。これは釈尊も「不死の境地」といっていますが、「死」というのは、「生」に対する事象であって、輪廻を前提にした言葉です。ですけれども、「不死」や、「死に至らない」という場合には、いわゆる肉体の死が、生死の死では無くて、「涅槃」に入ることを意味します。涅槃に入れば、解脱が完全に達成され、輪廻しませんので、「死」では無いのです。
無住禅師は、涅槃に入るのだから、殺されることも無いといっています。
しかし、普通の人は、日常的な感覚器官による情報に惑わされて、身口意の三業を妄りに用いることで、生死を繰り返します。そのような生死を繰り返すことが既に決まっている人は、今生きながら、既に死んでいるのです。無住禅師は、「人を殺すことは、既に死んでいるところを殺す」と言っています。しかし、涅槃に入る人は、既に世俗的な殺からも無縁で、老子が説いた大人物の如くに、周囲の事象から超然としているのです。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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