まぁ、一時的なドグマに過ぎなかったと思っているけれども、近代仏教では、仏陀は霊魂を否定し、結果、祖先崇拝なども否定した、なんてことがいわれていた。拙僧はそれを聞きながら、でも、何だって今、ここまで祖先崇拝に仏教徒が、そして僧侶が関わっているのだろうか?と疑問に思っていた。関わっていることが疑問だったのでは無い。関わっていることが、仏陀の教えに反しているとアッサリ述べる側に問題があると思っていた。
やっぱり、かつての僧侶は本当に恐ろしい程勉強している。その人達が関わったとすれば、それは関わること自体に問題があると思われていなかったためであろう、そんなことを大学の学生の頃に思っていた。すると、やっぱりそんな考えの方が正しいと思えるようになってきた。今日はその一例である。以前、【人口減少社会と「七不衰法」について】という記事を書いたことがあるが、仏陀の最期を描いた『大般涅槃経』には「七不衰法」について採り上げている。これは、ヴァッジ族がマガダ国に征服されようとした時、そのヴァッジ族の徳を示して止めさせようとしたという話である。部族の7つの徳を挙げて、これが守られている間は、衰滅しないとした。
その中に、以下のようにある。
アーナンダよ。ヴァッジ人が(都市の)内外のヴァッジ人のヴァッジ霊域を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適ったかれらの供物を廃することがない間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。
中村元先生訳『ブッダ最後の旅』岩波文庫、14頁
ブッダはこのように、ヴァッジ人の霊域、つまりは霊木(或いは、死者を祀る塚などがある可能性も指摘される)などが祀られる区域に対し、正しく尊敬の念を起こし、供物を捧げているならば、衰亡しないと述べているのである。これが仏陀の教えに見える明確に祖先崇拝を肯定し、そして、それが部族の繁栄に繋がることを示した箇所である。こういう文脈について、実際の意味合いを知りたいと思ったが、訳者の中村先生は、「七不衰法」に見える特徴について次のように書いている。
(1)協和の精神が強調されている。
(2)観念的な保守主義。
(3)いかなる宗教をも承認する立場をとっている。
前掲同著197頁
各項目ともに冒頭の一文のみ略述しているのだが、ここで重要なのは(2)或いは(3)である。特に(2)については、仏陀は基本的に保守主義であり、それまでに存在していた機構や観念などを壊さないように励んだという。その意味では、なるほど、仏教というのは、バラモン教などからすれば、「新興宗教」だったのかもしれないが、現在見るような、旧来の宗教などに果敢に挑んで行くような状態とは全く違う。だからこそ、バラモン教はそのまま残ったのである。だから、現在期待されているような、社会改革などを仏陀に投影するのは誤りである。教義的にも同様で、仏陀自身は、それまでに存在した他の仏陀(過去仏)と同じような内容だとも説く。
また、(3)も興味深いのは、それまでに各地域に存在していた宗教について排斥した形跡が無いという。よって中村先生は、「仏教がアジア諸国に広がるにつれて、それぞれの国の民間信仰を摂取融合したのも、このような立場に由来する」(197頁)という。よって、日本人が祖先を祀り、それを大切に信仰するという時、仏陀の立場と相反することは無いといえる。そして、日本人は自分達の祖先を、むしろ逆に「ほとけさま」とまでいうようになった。そして、我々日本人がヴァッジ人の立場であるとすれば、そのような祖先崇拝が正しく行われている間は、「繁栄が期待され、衰亡は無い」のである。
よって、我々日本仏教者は、どこまでも「保守的」に、祖先崇拝を説いていくべきであるといえる。それが、仏陀の御心に契うのである。
この記事を評価して下さった方は、Image may be NSFW.
Clik here to view.
にほんブログ村 仏教を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈仏教11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
やっぱり、かつての僧侶は本当に恐ろしい程勉強している。その人達が関わったとすれば、それは関わること自体に問題があると思われていなかったためであろう、そんなことを大学の学生の頃に思っていた。すると、やっぱりそんな考えの方が正しいと思えるようになってきた。今日はその一例である。以前、【人口減少社会と「七不衰法」について】という記事を書いたことがあるが、仏陀の最期を描いた『大般涅槃経』には「七不衰法」について採り上げている。これは、ヴァッジ族がマガダ国に征服されようとした時、そのヴァッジ族の徳を示して止めさせようとしたという話である。部族の7つの徳を挙げて、これが守られている間は、衰滅しないとした。
その中に、以下のようにある。
アーナンダよ。ヴァッジ人が(都市の)内外のヴァッジ人のヴァッジ霊域を敬い、尊び、崇め、支持し、そうして以前に与えられ、以前に為されたる、法に適ったかれらの供物を廃することがない間は、ヴァッジ人には繁栄が期待され、衰亡は無いであろう。
中村元先生訳『ブッダ最後の旅』岩波文庫、14頁
ブッダはこのように、ヴァッジ人の霊域、つまりは霊木(或いは、死者を祀る塚などがある可能性も指摘される)などが祀られる区域に対し、正しく尊敬の念を起こし、供物を捧げているならば、衰亡しないと述べているのである。これが仏陀の教えに見える明確に祖先崇拝を肯定し、そして、それが部族の繁栄に繋がることを示した箇所である。こういう文脈について、実際の意味合いを知りたいと思ったが、訳者の中村先生は、「七不衰法」に見える特徴について次のように書いている。
(1)協和の精神が強調されている。
(2)観念的な保守主義。
(3)いかなる宗教をも承認する立場をとっている。
前掲同著197頁
各項目ともに冒頭の一文のみ略述しているのだが、ここで重要なのは(2)或いは(3)である。特に(2)については、仏陀は基本的に保守主義であり、それまでに存在していた機構や観念などを壊さないように励んだという。その意味では、なるほど、仏教というのは、バラモン教などからすれば、「新興宗教」だったのかもしれないが、現在見るような、旧来の宗教などに果敢に挑んで行くような状態とは全く違う。だからこそ、バラモン教はそのまま残ったのである。だから、現在期待されているような、社会改革などを仏陀に投影するのは誤りである。教義的にも同様で、仏陀自身は、それまでに存在した他の仏陀(過去仏)と同じような内容だとも説く。
また、(3)も興味深いのは、それまでに各地域に存在していた宗教について排斥した形跡が無いという。よって中村先生は、「仏教がアジア諸国に広がるにつれて、それぞれの国の民間信仰を摂取融合したのも、このような立場に由来する」(197頁)という。よって、日本人が祖先を祀り、それを大切に信仰するという時、仏陀の立場と相反することは無いといえる。そして、日本人は自分達の祖先を、むしろ逆に「ほとけさま」とまでいうようになった。そして、我々日本人がヴァッジ人の立場であるとすれば、そのような祖先崇拝が正しく行われている間は、「繁栄が期待され、衰亡は無い」のである。
よって、我々日本仏教者は、どこまでも「保守的」に、祖先崇拝を説いていくべきであるといえる。それが、仏陀の御心に契うのである。
この記事を評価して下さった方は、Image may be NSFW.
Clik here to view.

これまでの読み切りモノ〈仏教11〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。