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『心地観経』に三種の僧あり

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僧侶にも、様々な種類がいたようで・・・

 善男子よ、世・出世間に三種の僧有り。
 一には菩薩僧。
 二には声聞僧。
 三には凡夫僧。
 文殊師利及び弥勒等、是れ菩薩僧なり。
 舍利弗・目犍連等の如きは、是れ声聞僧なり。
 若し、別解脱戒を成就する有る真善凡夫、乃至、一切の正見を具足し、能く広く他の為に衆の聖道の法を演説し開示し、衆生を利楽するものを、凡夫僧と名づく。未だ無漏の戒・定、及び慧・解脱を得ること能わずと雖も、而も供養すれば、無量の福を獲ん。
 是の如き三種を真の福田僧と名づく。
    『大乗本生心地観経』巻2

経典名からも分かるように、これは大乗経典です。まぁ、実証的研究では仏陀釈尊の直説ではないとはいいますが、後のインド仏教史に於いて、これを必要と想い制作した者達がいたことまで否定することは出来ません。そして、その作られた時代の、教団及びその周辺の文化的背景を知ることが出来るというのも、大乗経典の魅力の1つです。ここから分かることは、当時、3種類の僧侶(僧宝)がいたということです。

大乗経典なので、こういう順番になっているのでしょうけれども、第一には菩薩僧を置いています。文殊や弥勒などを数えており、文字通りあらゆる智慧を具足し、慈悲溢れる修行を行い続けている理想的実践者です。第二には声聞僧を置いていますけれども、利他の行こそ欠くものの、仏の智慧に生きる存在として評価されているといえましょう。第三の「凡夫僧」、これが今回一番気になる存在です。

今の日本仏教でも、様々な僧侶がいるということで、批判を寄せる人も多いわけですが、しかし、様々な僧侶がいたというのは、大乗経典が作られた頃のインドでも同様ですし、摩訶迦葉などに仏典結集を決意させた事件を考えれば、釈尊在世時から様々な僧侶がいたと見るべきでしょう。しかし、問題はそれらが全て「供養されるべき対象」に数えられていたことです。良い僧だから供養し、悪い僧だから供養しないという「差別」があったわけではないのです。

さて、ただし、そうはいいつつも、供養のされ方には上手・下手があったようですし、六群比丘のように、托鉢に行ったは良いが、その場で問題を起こした場合もあったそうなので、「差別がなかった」ということはないのかもしれませんけど・・・しかも、『心地観経』本文でいわれている「凡夫僧」、今の拙僧の基準からいうと、「どこが凡夫なの?」と思わざるを得ません。だって、「別解脱戒」を成就しているわけですし、一切の正見を具足して、他の衆生のために説法し、衆生に楽を与える存在であるわけです。無論、無漏の三学を得ているわけではないでしょうが、しかし、素晴らしいように思います。

この「別解脱戒」ですが、『正法眼蔵随聞記』にも出る用語です。一々の戒法の条文を持つことで、それぞれに防非止悪して、解脱の徳を得るために、こう呼ばれます。不殺生戒なら、殺生をしない、不邪淫戒なら、邪淫をしない、というような感じです。別解脱戒には、それぞれの立場で各々守るべき条文が違い、その各々の立場で、「戒の守り方」が契った人を「別解脱戒」を成就するといい、それを「凡夫僧」といったのです。

しかも、「別解脱戒」に止まっている間は、常に「有漏の戒法」でしか無く、先の引用文にあるように、真実の仏の教えに契っていくような「無漏の戒法」を成就するには、さらに禅定を修して、智慧を明らかにしていく必要があるのです。最近の一般の人を見ると、この「別解脱戒」にばかり注目しているのが分かります。もっとも、僧侶の側も、この「別解脱戒」すら守れていないといわれてしまうわけですが、場合によってはその上にまで進み、好き勝手しているように見えるのかも?

「福田僧」という言葉が出ていますが、それは既に【「福田」についてのお話し】で論じた通りなので、それも合わせてご覧下さい。

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