先週の土曜日であるが、JR東海道線の辻堂駅に隣接されている「テラスモール湘南」というところに行って、拙僧達が行っている『正法眼蔵』勉強会にご参加いただいている先生の出版記念パーティーがあったので、拙僧も出席したのである。その中で、先生から「法話を」と依頼されたので、20分程度話したのであるが、正直、かなり苦戦を自覚した。いや、急いで註を付せば、これは聞き手の問題では無く、あくまでもこちらの問題だということだ。
もちろん、話すことがないわけではない。しかし、言いたいことを「届くように話す」というのは至難の業。それに、雰囲気的に分かる。参加された皆さんは、仏教(宗教)を必要としていない感じがするほどに、幸せそうな人が多い。どうしても、こちらは葬儀や法事といった供養の席で話す事が多いから、どこか悲しい経験をした人に話をすることに慣れてしまっていて、こんな幸せそうな人達を前に話して良いのだろうか?なんて思った。
だから困った。いや、もちろん、場は繋いだし、話すべきことも話した。思い上がりを覚悟でいえば、一句でも半句でも、聞いた方々の耳に残れば良いな、と願っている。話した内容は、至極簡単。
・開経偈
・アロハの挨拶(アロハの意味の説明)
・坊主丸儲けじゃないよ。
・仏教って何だ?
・三毒を離れよう。
・自分が葬儀してもらう時、お涙をいただける人生を。
・禅は余計なことを考えず楽しく生きる教え。
だいたいこんな感じ。我ながらしまったと思ったのは、「オチ」だけはその場の雰囲気で決めようと思っていたが、これが決まらず、締まらない話になったということである。結局、参加者の皆さんの幸せを祈ったのではあるが、その程度である。今回の方々はかなり幸せそうな人々であったが、こちらが話をすれば耳を傾けて下さった感じであり、大変に有り難かった。
でも、そういうことが一切期待出来ない場合もある。かつての仏祖って、そんな時一体どうしたのであろうか?で、『法華経』を読んでいると、こんな興味深いことが書いてあった。
若し我衆生に遇えば 尽く教うるに仏道を以てす
無智の者は錯乱し 迷惑して教を受けず
我知んぬ此の衆生は 未だ曾て善本を修せず
堅く五欲に著して 痴愛の故に悩を生ず
「方便品第二」
・・・衆生に逢って、仏道をもって教えても、知らない人は錯乱して、迷惑(道理に迷うこと)して教えを受けようとしないという。そして、何故そうなのかを仏陀は、このような衆生はこれまで、善行を積むことが無く、五欲にとらわれているからだという。まぁ、そこまでとはいわなくても、世間一般の幸せがあり続けると思い、それにとらわれている間は、仏道は耳に入らないのであろう。同じことは以下にも説かれている。
五濁の悪世には 但諸欲に楽著せるを以て
是の如き等の衆生は 終に仏道を求めず
当来世の悪人は 仏説の一乗を聞いて
迷惑して信受せず 法を破して悪道に堕せん
同上
五濁の悪世、というのは、衆生の能力が悪化してしまう世の中をいう。結果的に、真実の仏道には帰入しなくなってしまうのだが、そのような世の中では、ただ欲に執着するだけで、仏道を求めないという。しかも、そのような時代の人々(悪人としている。これは、世にいう悪行を行う人、という意味よりもより深い意味である)は、喩え仏が一乗(衆生の能力に分け隔てなく説かれる教え)を聞いても、やはり道理に迷って信じようとせず、それどころか法を破り、悪道に堕ちるという。
なお、仏陀は聞き手の舎利弗に対し、「方便」を垂れて、多くの衆生を導くように説いている。或いは、もう自分達はこんな教えなどは知っているわい、とかいう実感を抱いているような増上慢は、その法座からご退場願う(退亦佳矣)という。よって、増上慢が一番扱いに困るといえよう。だが、現代人でも、今自分が満ち足りていて、仏教なんぞ不要だ、と鼻で笑うような場合には、結局これと同じであるように思うのだが、どうだろうか。幸せに思える時間など、無常で過ぎ去るのである。その時、無常の中で、それを受容して生きることが可能なのかどうか?まさに、「真実不虚」(『般若心経』)の仏教の出番だと思うのだが・・・
最後になるが、当日の話は、自分なりに苦戦はしたが、面白かった。改めて機会を頂戴した先生に御礼申し上げるとともに、お聞き下さった皆さまの安寧を願うばかりである。
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もちろん、話すことがないわけではない。しかし、言いたいことを「届くように話す」というのは至難の業。それに、雰囲気的に分かる。参加された皆さんは、仏教(宗教)を必要としていない感じがするほどに、幸せそうな人が多い。どうしても、こちらは葬儀や法事といった供養の席で話す事が多いから、どこか悲しい経験をした人に話をすることに慣れてしまっていて、こんな幸せそうな人達を前に話して良いのだろうか?なんて思った。
だから困った。いや、もちろん、場は繋いだし、話すべきことも話した。思い上がりを覚悟でいえば、一句でも半句でも、聞いた方々の耳に残れば良いな、と願っている。話した内容は、至極簡単。
・開経偈
・アロハの挨拶(アロハの意味の説明)
・坊主丸儲けじゃないよ。
・仏教って何だ?
・三毒を離れよう。
・自分が葬儀してもらう時、お涙をいただける人生を。
・禅は余計なことを考えず楽しく生きる教え。
だいたいこんな感じ。我ながらしまったと思ったのは、「オチ」だけはその場の雰囲気で決めようと思っていたが、これが決まらず、締まらない話になったということである。結局、参加者の皆さんの幸せを祈ったのではあるが、その程度である。今回の方々はかなり幸せそうな人々であったが、こちらが話をすれば耳を傾けて下さった感じであり、大変に有り難かった。
でも、そういうことが一切期待出来ない場合もある。かつての仏祖って、そんな時一体どうしたのであろうか?で、『法華経』を読んでいると、こんな興味深いことが書いてあった。
若し我衆生に遇えば 尽く教うるに仏道を以てす
無智の者は錯乱し 迷惑して教を受けず
我知んぬ此の衆生は 未だ曾て善本を修せず
堅く五欲に著して 痴愛の故に悩を生ず
「方便品第二」
・・・衆生に逢って、仏道をもって教えても、知らない人は錯乱して、迷惑(道理に迷うこと)して教えを受けようとしないという。そして、何故そうなのかを仏陀は、このような衆生はこれまで、善行を積むことが無く、五欲にとらわれているからだという。まぁ、そこまでとはいわなくても、世間一般の幸せがあり続けると思い、それにとらわれている間は、仏道は耳に入らないのであろう。同じことは以下にも説かれている。
五濁の悪世には 但諸欲に楽著せるを以て
是の如き等の衆生は 終に仏道を求めず
当来世の悪人は 仏説の一乗を聞いて
迷惑して信受せず 法を破して悪道に堕せん
同上
五濁の悪世、というのは、衆生の能力が悪化してしまう世の中をいう。結果的に、真実の仏道には帰入しなくなってしまうのだが、そのような世の中では、ただ欲に執着するだけで、仏道を求めないという。しかも、そのような時代の人々(悪人としている。これは、世にいう悪行を行う人、という意味よりもより深い意味である)は、喩え仏が一乗(衆生の能力に分け隔てなく説かれる教え)を聞いても、やはり道理に迷って信じようとせず、それどころか法を破り、悪道に堕ちるという。
なお、仏陀は聞き手の舎利弗に対し、「方便」を垂れて、多くの衆生を導くように説いている。或いは、もう自分達はこんな教えなどは知っているわい、とかいう実感を抱いているような増上慢は、その法座からご退場願う(退亦佳矣)という。よって、増上慢が一番扱いに困るといえよう。だが、現代人でも、今自分が満ち足りていて、仏教なんぞ不要だ、と鼻で笑うような場合には、結局これと同じであるように思うのだが、どうだろうか。幸せに思える時間など、無常で過ぎ去るのである。その時、無常の中で、それを受容して生きることが可能なのかどうか?まさに、「真実不虚」(『般若心経』)の仏教の出番だと思うのだが・・・
最後になるが、当日の話は、自分なりに苦戦はしたが、面白かった。改めて機会を頂戴した先生に御礼申し上げるとともに、お聞き下さった皆さまの安寧を願うばかりである。
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