非常に分かり易い漢詩を見付けたので、採り上げてみたい。
我が生何処より来り
去って何処にか之く
独蓬窗の下に坐して
兀々として静かに尋思す
尋思するも始を知らず
焉んぞ能く其の終を知らん
現在も亦復然り
展転総べて是れ空
空中に且く我れ有り
況んや是と非と有らんや
些子を容るるを知らず
縁に随って且に従容
岩波文庫本『良寛詩集』62〜63頁
仏教に於いて問われる「生死去来の真実」についてであるが、良寛さん(1758〜1831)は、それを自分の庵にある窓の下で坐禅し、ピクリとも動かず静かに考えたようである。ところが、幾ら考えてみても、この我が存在が何処から来て始まり、どこに去って終わるのか、それは分かりようも無かったというのである。また、考えて考えて悩んだ後、この漢詩を書いているその時の「現在」であっても、やっぱり分からないのである。
しかしながら、始終が分からなくても、今まさに生きることについては、把握出来るかもしれない。「現在」であっても良く分からないとはしているが、しかし、一切の存在はどのように展開したとしても、全ては「空」である。この空の内に、我が存在はあるといえる。よって、この「是非」を問うても無駄である。是非もまた、空なのである。空である以上、それは無常を意味しており、是も非も、我が存在もまた、一時の姿である。
その是非をわずかに容れることも出来ず、ただ縁に従ってゆったりと生きるだけ、なのである。
このように生きられれば、どれほどに楽なことか。しかし、我々はそういう世界では無いところで生きている。多くの場合、諸縁に紛れて、自らの生業を成就させるだけなのだ。だからこそ、このように禅境を真っ正面から表現している良寛さんの漢詩を見ると、とても清々しい。この清々しさは、清涼剤的なそれでは無い。自らの実存へのとらわれの無さ、に基づく清々しさである。本来、手垢を付けることが出来ない存在に対し、必死にベタベタ触ってもかえって自分自身気色悪いだけである。
そうではなくて、手垢を付けられないのなら、放っておけば良い。それが縁に随ってまさに従容である。この「縁に随って」というのが、大梅法常禅師が示した、「流れに随って去れ」という時の「随い」に同じである。ただ、生死の苦海の荒波に抗うのでは無く、お任せするのである。そのような時、自らの想いを容れる必要無く、最終的にはその想いの全てが契うのである。それは、単純に希望することが契う、ということでは無くて、希望そのものの吟味がなされた上で契うのである。希望のラインを下げることである。
幾ら、兀坐尋思してみたところで、この基本線が会得出来なければ、幾ら坐っても虚坐である。
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独蓬窗の下に坐して
兀々として静かに尋思す
尋思するも始を知らず
焉んぞ能く其の終を知らん
現在も亦復然り
展転総べて是れ空
空中に且く我れ有り
況んや是と非と有らんや
些子を容るるを知らず
縁に随って且に従容
岩波文庫本『良寛詩集』62〜63頁
仏教に於いて問われる「生死去来の真実」についてであるが、良寛さん(1758〜1831)は、それを自分の庵にある窓の下で坐禅し、ピクリとも動かず静かに考えたようである。ところが、幾ら考えてみても、この我が存在が何処から来て始まり、どこに去って終わるのか、それは分かりようも無かったというのである。また、考えて考えて悩んだ後、この漢詩を書いているその時の「現在」であっても、やっぱり分からないのである。
しかしながら、始終が分からなくても、今まさに生きることについては、把握出来るかもしれない。「現在」であっても良く分からないとはしているが、しかし、一切の存在はどのように展開したとしても、全ては「空」である。この空の内に、我が存在はあるといえる。よって、この「是非」を問うても無駄である。是非もまた、空なのである。空である以上、それは無常を意味しており、是も非も、我が存在もまた、一時の姿である。
その是非をわずかに容れることも出来ず、ただ縁に従ってゆったりと生きるだけ、なのである。
このように生きられれば、どれほどに楽なことか。しかし、我々はそういう世界では無いところで生きている。多くの場合、諸縁に紛れて、自らの生業を成就させるだけなのだ。だからこそ、このように禅境を真っ正面から表現している良寛さんの漢詩を見ると、とても清々しい。この清々しさは、清涼剤的なそれでは無い。自らの実存へのとらわれの無さ、に基づく清々しさである。本来、手垢を付けることが出来ない存在に対し、必死にベタベタ触ってもかえって自分自身気色悪いだけである。
そうではなくて、手垢を付けられないのなら、放っておけば良い。それが縁に随ってまさに従容である。この「縁に随って」というのが、大梅法常禅師が示した、「流れに随って去れ」という時の「随い」に同じである。ただ、生死の苦海の荒波に抗うのでは無く、お任せするのである。そのような時、自らの想いを容れる必要無く、最終的にはその想いの全てが契うのである。それは、単純に希望することが契う、ということでは無くて、希望そのものの吟味がなされた上で契うのである。希望のラインを下げることである。
幾ら、兀坐尋思してみたところで、この基本線が会得出来なければ、幾ら坐っても虚坐である。
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