曹洞宗は現在、両大本山を仰いでおりますが、古来は所在する地名から、「越山」と「能山」などと呼ばれたことがあります。越山は、越前にある大本山永平寺のこと、能山とは能登にあった大本山總持寺のこと。現在、能山は「相山」になり、能登には「總持寺祖院」が遺されましたが、この能登から相模への移転を実現させたのが、石川素童禅師(1841〜1920、大本山總持寺独住第4世)であります。その石川禅師の著作(提唱録)に『獅子吼』(大正6年初版刊行、昭和60年再刊)というのがあり、その中には無住道曉禅師に関する提唱「無住法師の教訓」が収められています(引用に当たり、仮名の使い方などを読みやすく改めました)。
『沙石集』は実に、無住法師の暖皮肉であり、活骨髄である。これを拝覧する者は、正にこの中から金を採り、玉を探らねばならぬ。この金や玉は無尽蔵である。どれだけ取っても無くなることはない。この金や玉は無価の宝であるから、何程使っても減らぬ。諸人の取るに任せてあるから、これを読んで遠慮無く採るべきである。この金を採り、玉を採るものの多い程、大寂定中の国師は満足されるのである。
石川禅師前掲同著、305〜306頁、かな等表現を改める
石川禅師は、繰り返し繰り返し『沙石集』『雑談集』をお読みになったそうで、おそらくはご自身の提唱や、布教にも活用されたものと思います。それどころか、自身の出家の因縁について、以下のように話したこともあります。
名古屋市外の木駕崎の長母寺は、国師の根本道場である。不思議な因縁で、老衲(わし)の両親はこの国師の真前に、も一人男児を得て出家をさせたいが、と祈願した。霊験空しからずして翌年生まれたのが老衲であった。その因縁で老衲は出家した。そんな因縁もあるので、『沙石集』は小僧の頃から能く読んだ。
石川禅師前掲同著、162〜163頁、かな等表現を改める
生まれる前から、無住禅師との因縁があった石川禅師、確かにその文章からは尊崇の念の強さを感じることが出来ます。なお、親が願う「男児を得て出家させたい」というのは、子の出家が親に回向されることは、この世に於ける最高の供養の1つなのです。今でもその習慣が残る地域があります(東南アジアなど)。拙僧、決して出家の因縁に無住禅師が関わったわけではありませんが、石川禅師を範として、これまで以上に無住禅師(大円国師)の教えに参じてみたいと思います。ということで、前回の【(11c)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。
『沙石集』は全10巻ですが、今回紹介する第9巻は、嫉妬深い人・嫉妬が無い人、他にも愚かな人や因果の道理を無視して好き勝手するような者などを事例として挙げながら、我々人間の心にある闇、或いは逆に爽やかな部分を無住が指摘しています。具体的には以下のような内容があります。今回は「二五 先世房の事」を使ってみたいと思います。掻い摘んでお話しをしますと、これは、自分に起きることを全て「前世の事」とのみ嘆じて、喜怒哀楽の感情を見せなかった者のお話しから転じて、無住が過去現在未来に渡る因果の話などをまとめた一節です。
中国に、北叟という俗人がいた。何事にも、憂えたり喜んだりすることはなかった。
或る時、一頭だけ飼っていた馬が、何処へかいなくなってしまった。隣の人が慰めに来たが、「さて、悦ぶべきことでありましょうか。歎くべきことでありましょうか」といった。
それから、2〜3日過ぎて、天下には得難いほどの駿馬を、(そのいなくなった馬が)伴って来た。(隣の)人がまた来て、「お嘆きかと思いましたら、おめでたいことでしたね」というと、また(北叟は)「これも、歎くべきことでありましょうか。悦ぶべきことでありましょうか」といって悦ばなかった。
(北叟の)最愛の子が、この駿馬に乗って遊んでいたが、落馬してヒジを折ってしまった。人々がまた来て、「この馬が出て来たことを悦ぶことかと思いましたが、哀しいことでしたね」といえば、(北叟は)また、「これも悦ぶべきことであるかもしれません」といって歎かないでいたが、天下に大乱が起きて、武士が多く戦場に向かって滅んでしまった。しかし、この子は、身体が不自由であったため、命を全うした。
拙僧ヘタレ訳
いわゆる、「人間万事塞翁が馬」の故事です。元々は、『淮南子(えなんじ)』「人間訓」に収録されるお話しで、無住もそれを引用したものと思われます。ここ数回のお話しは、いわゆる一切の世の事象について、善悪・優劣といった価値基準から超然として生き抜く「前世房」という人に関連した話をお伝えしているわけですが、さすがは無住、この「北叟(塞翁)」の話に似たものを感じたようです。
先にも述べたように、「先世房」というのは、自らに降りかかる様々な善悪両方の因縁を、一切全て「前世の事」とのみ嘆じて受け止め、そして本人は喜怒哀楽の感情を見せなかったのです。無住は、そのように善悪一切を受け止めて、本人は喜怒哀楽の感情を見せないという部分に、北叟との共通点を感じたといえましょう。
拙僧も、子供の頃、自宅にあった「日めくり好語集」的なものを、毎日トイレで読んでいて、この「人間万事塞翁が馬」の故事を知りました。今もまだ、どこかこの気持ちでいることは事実であり、特に大学に入ってから以降は、何かあっても、余り気にせずに過ごすようにもなりました。楽事も苦事も、結局は「一時のくらい」だと知れば、自ずととらわれる必然性は雲散霧消するわけです。ただ、その境地というか諦念に至るには、並大抵のことではないとは思います。
初に報怨行とは、修道苦至して、当に往劫を念ずべし。本を捨てて末を逐い、多く愛憎を起こせり。今犯すこと無しと雖も、是れ我が宿作なりと、甘心これを受けて都て怨対無きなり。経に云く「苦に逢って憂えざれ」と。識、達するが故なり。この心生ずる時、道と違うこと無きことは、怨を体して道に進むが故なり。
達磨大師『二入四行論』「報怨行」
以前、【「達摩」の伝記について】という記事でも紹介した、達磨大師作と伝わる『二入四行論』から、「行入」の一である報怨行を見てみます。これは、様々な怨む想いを抱いてしまいそうな時、どのように対処すべきかが書かれています。しかも、その対処法は「我が宿作なりと、甘心これを受けて都て怨対無きなり」ということは、正に「先世房」のような生き方をするように求めているのです。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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『沙石集』は実に、無住法師の暖皮肉であり、活骨髄である。これを拝覧する者は、正にこの中から金を採り、玉を探らねばならぬ。この金や玉は無尽蔵である。どれだけ取っても無くなることはない。この金や玉は無価の宝であるから、何程使っても減らぬ。諸人の取るに任せてあるから、これを読んで遠慮無く採るべきである。この金を採り、玉を採るものの多い程、大寂定中の国師は満足されるのである。
石川禅師前掲同著、305〜306頁、かな等表現を改める
石川禅師は、繰り返し繰り返し『沙石集』『雑談集』をお読みになったそうで、おそらくはご自身の提唱や、布教にも活用されたものと思います。それどころか、自身の出家の因縁について、以下のように話したこともあります。
名古屋市外の木駕崎の長母寺は、国師の根本道場である。不思議な因縁で、老衲(わし)の両親はこの国師の真前に、も一人男児を得て出家をさせたいが、と祈願した。霊験空しからずして翌年生まれたのが老衲であった。その因縁で老衲は出家した。そんな因縁もあるので、『沙石集』は小僧の頃から能く読んだ。
石川禅師前掲同著、162〜163頁、かな等表現を改める
生まれる前から、無住禅師との因縁があった石川禅師、確かにその文章からは尊崇の念の強さを感じることが出来ます。なお、親が願う「男児を得て出家させたい」というのは、子の出家が親に回向されることは、この世に於ける最高の供養の1つなのです。今でもその習慣が残る地域があります(東南アジアなど)。拙僧、決して出家の因縁に無住禅師が関わったわけではありませんが、石川禅師を範として、これまで以上に無住禅師(大円国師)の教えに参じてみたいと思います。ということで、前回の【(11c)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。
『沙石集』は全10巻ですが、今回紹介する第9巻は、嫉妬深い人・嫉妬が無い人、他にも愚かな人や因果の道理を無視して好き勝手するような者などを事例として挙げながら、我々人間の心にある闇、或いは逆に爽やかな部分を無住が指摘しています。具体的には以下のような内容があります。今回は「二五 先世房の事」を使ってみたいと思います。掻い摘んでお話しをしますと、これは、自分に起きることを全て「前世の事」とのみ嘆じて、喜怒哀楽の感情を見せなかった者のお話しから転じて、無住が過去現在未来に渡る因果の話などをまとめた一節です。
中国に、北叟という俗人がいた。何事にも、憂えたり喜んだりすることはなかった。
或る時、一頭だけ飼っていた馬が、何処へかいなくなってしまった。隣の人が慰めに来たが、「さて、悦ぶべきことでありましょうか。歎くべきことでありましょうか」といった。
それから、2〜3日過ぎて、天下には得難いほどの駿馬を、(そのいなくなった馬が)伴って来た。(隣の)人がまた来て、「お嘆きかと思いましたら、おめでたいことでしたね」というと、また(北叟は)「これも、歎くべきことでありましょうか。悦ぶべきことでありましょうか」といって悦ばなかった。
(北叟の)最愛の子が、この駿馬に乗って遊んでいたが、落馬してヒジを折ってしまった。人々がまた来て、「この馬が出て来たことを悦ぶことかと思いましたが、哀しいことでしたね」といえば、(北叟は)また、「これも悦ぶべきことであるかもしれません」といって歎かないでいたが、天下に大乱が起きて、武士が多く戦場に向かって滅んでしまった。しかし、この子は、身体が不自由であったため、命を全うした。
拙僧ヘタレ訳
いわゆる、「人間万事塞翁が馬」の故事です。元々は、『淮南子(えなんじ)』「人間訓」に収録されるお話しで、無住もそれを引用したものと思われます。ここ数回のお話しは、いわゆる一切の世の事象について、善悪・優劣といった価値基準から超然として生き抜く「前世房」という人に関連した話をお伝えしているわけですが、さすがは無住、この「北叟(塞翁)」の話に似たものを感じたようです。
先にも述べたように、「先世房」というのは、自らに降りかかる様々な善悪両方の因縁を、一切全て「前世の事」とのみ嘆じて受け止め、そして本人は喜怒哀楽の感情を見せなかったのです。無住は、そのように善悪一切を受け止めて、本人は喜怒哀楽の感情を見せないという部分に、北叟との共通点を感じたといえましょう。
拙僧も、子供の頃、自宅にあった「日めくり好語集」的なものを、毎日トイレで読んでいて、この「人間万事塞翁が馬」の故事を知りました。今もまだ、どこかこの気持ちでいることは事実であり、特に大学に入ってから以降は、何かあっても、余り気にせずに過ごすようにもなりました。楽事も苦事も、結局は「一時のくらい」だと知れば、自ずととらわれる必然性は雲散霧消するわけです。ただ、その境地というか諦念に至るには、並大抵のことではないとは思います。
初に報怨行とは、修道苦至して、当に往劫を念ずべし。本を捨てて末を逐い、多く愛憎を起こせり。今犯すこと無しと雖も、是れ我が宿作なりと、甘心これを受けて都て怨対無きなり。経に云く「苦に逢って憂えざれ」と。識、達するが故なり。この心生ずる時、道と違うこと無きことは、怨を体して道に進むが故なり。
達磨大師『二入四行論』「報怨行」
以前、【「達摩」の伝記について】という記事でも紹介した、達磨大師作と伝わる『二入四行論』から、「行入」の一である報怨行を見てみます。これは、様々な怨む想いを抱いてしまいそうな時、どのように対処すべきかが書かれています。しかも、その対処法は「我が宿作なりと、甘心これを受けて都て怨対無きなり」ということは、正に「先世房」のような生き方をするように求めているのです。
【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年
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