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Channel: つらつら日暮らし
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今日は「端午の節句」です(平成24年度版)

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最近、自室の書棚を整理していたのですが、一時期、この人の思考に合わせて、拙僧も「言葉の外」に出たかったらしく、ずいぶんと集めた保坂和志氏の『アウトブリード』(河出文庫、2003年)を見付け、久方ぶりに開いてみました(なおこの文庫本に収められるエッセイは、オウム真理教による「地下鉄サリン事件」後の時期なので、たまに関連する文脈が見られるので、それも興味深いところです)。すると、ちょうど今日の日付に関わる題名のエッセイがあり、このような俳句が引用されていました。

未明から五月五日の空である 吉本壮迅

保坂氏はこの句を媒介として、如何にして単純な情景を描いていくかを解いています(なお、このエッセイを書いた当時、保坂氏は俳句や短歌に関心が無かったそう)。この俳句は単純だそうです。まぁ、難しい事は考えられない拙僧なので、この句も普通に今朝の事を指しているとしか分かりません。鯉のぼりは浮かんでいるんでしょうかね?

さておきまして、この記事も本題に戻りますけど、端午と言えば、古来から禅宗でも重要な日(もちろん、「こどもの日」としてではありませんが)でありまして、道元禅師も端午に見合うだけの行持を行っております(中世・近世の曹洞宗寺院での様子は【「端午の節句」と禅宗叢林について】を参照してください)。

この日に行持を行う理由なのですが中国の風習に由来します。そして、五月の端(はじめ)の五日、つまり五月夏至の端(はじまり)の意味を持ち、端午の称は午月午日午時の三午が端正に揃うからとも言われます。このように五月五日を端午と明らかに称するようになるのは唐代以後のことです。また、宋代以後には天中節とも言われるようになります。これは、五月五日の五時が天の中央にあたることと、この日の月日時の全てが数字の“一三五七九”の天数(奇数)の中央である“五”にあたることから、天中節と称します。なお、『天中殺』とは全く違うのでご注意下さい。

さて、端午には廳香・沈香・丁子などを錦の袋に入れ、蓬・菖蒲などを結び、五色の糸を垂らさせた「薬縷(薬玉)」を作り、柱にかけたり身に付けたりして邪気を払って長命息災を祈りました。また、薬狩と称して薬草を集めることも行われました。道元禅師の上堂では4回ほど端午(天中節)に因んだものがあります。それは、永平寺(大仏寺)に移られてからのものばかりですが、以下の通りです(年号は推定)。

寛元4年(1246):巻2−169上堂(既報)
宝治元年(1247):巻3−242上堂(今回)
宝治2年(1248):巻4−261上堂(既報)
建長元年(1249):巻4−326上堂(既報)

それで、この内、巻三以降のものは全て中国曹洞宗の宏智正覚禅師(1091〜1157、『従容録』の元になった『宏智禅師頌古』を作頌しました。黙照禅の大成者とされていまして、道元禅師は「古仏」と呼んで尊崇しました)の天中節の上堂を受けてのものになっております。

 端午の上堂に、挙す。
 宏智古仏、天童に住する時、今朝の上堂に云く、「五月五日天中節、百草頭上に生殺を看る。
 甘草・黄連、自ら苦く甜し、人蔘・附子、寒熱を分かつ。
 薫蕕、昧し難し双垂瓜。滋味、那ぞ瞞ぜん初偃月。
 円明了知、心念閑なり。摩訶迦葉、能く分別す。
 諸禅徳、分別底は、是、意なり。迦葉尊者、久しく意根を滅す。
 円明了知、心念に由らず。且く作麼生、得て恰好去。
 人、平らかにして語らず、水、平らかにして流れず」。
 師云く、宏智古仏、恁麼に道う。永平児孫、且く作麼生か、是れ道わん、人、平らかにして語らず。不妄語、不誑語、不異語なり。是、語無きに有らず、二種語無きなり。且く作麼生か道わん、水、平らかにして流れず。大海、若し足るを知れば、百川、応に倒に流るべし。
    『永平広録』巻3-242上堂

寛元5年(1247)に行われたと推定されている「端午の上堂」に於いて、道元禅師の上堂語のほとんどは、宏智正覚禅師の上堂を本則として挙し、そして宏智禅師の言葉を受けて自ら宗乗に基づく言説を展開されています。なお、この宏智禅師の上堂ですが、『宏智録』巻3「明州天童山覚和尚語録」を出典としています。道元禅師はこの上堂を、後の巻4-261上堂などでも採り上げられています。

宏智禅師による上堂の宗旨は何処にあるかといえば、この5月5日は、様々な薬草を集めて「薬玉(薬縷)」を作ることを習わしとしていたわけですが、その「様々な薬草」を題材にしています。つまり、様々な味わいや効能がある薬草は、それとして機能がこの世界に於いて発現しているわけです。摩訶迦葉は、そのところを良く分別しており、その分別は、我々の意識がその機能を持っていたわけです。ところが、摩訶迦葉は自らその意を断じて鶏足山に籠もって、弥勒菩薩を待つようになってしまいました。しかし、その時却って、円満なる智慧が具足しているわけです。

宏智禅師は、そのような平等なる智慧を得れば、何も語ることはないといっています。更に、水も高さに上下がない場所では流れることはありません。ただそれとしてある万徳円満なのです。

さて、道元禅師はこの一則を受けて、更に自らの意を展開されています。特に中心的に提唱されたのは、「人、平らかにして語らず」のところです。ここでは、「不妄語、不誑語、不異語」としています。これは、3種類全部載っているような文脈は、先行する文献には内容なので、多分、「不妄語」は「十重禁戒」「十善戒」辺りから引っぱってきて、「不誑語・不異語」は『金剛般若経』でありましょう。如来は実語を語るので、これらは用いないとされています。そこで、宏智禅師は「語りようのない境涯」を示そうとしていますが、道元禅師は、「是、語無きに有らず、二種語無きなり」としていて、「二種語」を『大智度論』巻25で説かれる「二種不浄語」であると仮定すれば、「邪」と「慢」に基づく語になります。これらはやはり、「実語」から自らを遠ざける心念であるとしなくてはなりません。

そして、「水、平らかにして流れず」については、「大海、若し足るを知れば、百川、応に倒に流るべし」とあるように、既に仏法で充ち満ちていれば、後はそこから一切の世間に仏法は流れ出るのみでございます(この解釈は一例。迷悟の問題に関連づける場合もある)。今日の「端午の節句」にあって、我々が明らかにしたいのは、とにかく節句の行事を通して、身体健全・弁道増進し、そして、百川が逆さまに流れるようにしなくてはならないということです。それは、驀直に精進することです。この真っ直ぐさによって発せられる「如来の実語」、冒頭に引いた「真っ直ぐな俳句」と妙なところで接点があるなと思っています。

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これまでの読み切りモノ〈曹洞宗7〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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