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損翁禅師と宗統復古運動5(ニュー或る僧の修行日記5)

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江戸時代初期の曹洞宗が輩出した傑僧、損翁宗益禅師が「宗統復古運動」をどう判断しておられたかを見ていく連載内連載記事です。

 お師匠さまは、茶話にいわれるには「一師印証を官に訴えたとき、官より曹洞宗の室内三物は、何時から始まったものかということが問われた。関東の三僧統がいうには、「永平開山の頃から起きたものです」と。
 卍山・梅峰がいうには「『嗣書』は永平(道元禅師)からあった。『血脈』と『大事』とは、徹通・瑩山からあるものである」と。
 答えた言葉は各々違っていた。官は僧統に問うた「永平開山から始まった証拠はあるのか」と。
 答えていうには「『永平広録』にいわれるには「仏仏は仏仏に正伝するモノの中に、必ず三物がある。驢胎・馬服・牛皮と。この内に現成し尽くしている」」と。
 時に、(場に居合わせた)僧侶が潜に笑って、思うに、この法語が、どうして室内の三物に当たることがあろうか、と。
 その後、官が再び問うことはなかった。
 山僧、後に考えるに、三物は実に永平(道元)よりあるものである、と。『嗣書』は元々、天童(如浄)より伝えられたものがある。訓訣に、具体的に血脈頂上の一円相のことが採り上げられているのだから、天童の時に『血脈』があることは明らかである。
 永平(道元)の伝記にいわれるには「『宝鏡三昧』『五位要訣』を授く」と。この「五位」の要訣とは、つまり『大事』である。元は、五位の図相である。転々書写していく中で、後の人が蛇足を加えてしまったから、本旨が失われたのである。今、各々室内にて伝授しているけれども、1人としてこの旨を知る者が無いというのは、宗門が衰えてしまったのである。
 僧統は、かつてこの答えに至らず、ただ広録の法語を引いただけである。その人は迂闊なことをしてしまったのであり、遺憾な思いは少なくない。
 しかし、この法語も、無駄な教えではない。祖師の語には、このような例が多いから、ただ誤らなければ好いのである」と。
 余は、後、真夜中になって、独参した。お師匠さまは蚊帳の内にあって、その時『宝鏡三昧』『参同契』、及び「五位」の秘訣を授けてくれた。実に、生涯の中でも最も幸いなことであった。
    面山瑞方師『見聞宝永記』、拙僧ヘタレ訳

江戸時代元禄期に行われた「宗統復古運動」は、基本的に一師印証方(卍山・梅峰など)と、伽藍相続方(三僧統など)によって幕府の裁判にしたがう形で展開されています。つまり、一師印証方は、従来の伽藍相続方法について、それが曹洞宗の教えに契う行いではないと訴え出て、そして争っていたのです。今日、ここで採り上げた文章の内容は、その裁判の争点の1つであるといえます。

なかなか難しい話なので、宗侶の方でも正確にこの辺を理解している人は、多くはないと思いますけれども、如何でしょうか?いやまぁ、拙僧もたまに間違えそうになるのですが、拙僧だけだと良いんですけどね。そして、一般の在家の方には全く関係のない話でもあります。

要するにどういうことかというと、現在の曹洞宗の規程では、僧侶が「教師(いわゆる「先生」ではなくて、「導師」として一寺の住持に相応しい力量があると認められた人のこと)」になる場合には、その過程で必ず『嗣書・大事・血脈』の「室内三物」を得て、その後は長く保持されねばならないとされています。そして、今回の記事での議論は、この「室内三物」が、いつ頃から始まったものかを問うているのです。分かりやすく言いますと、次のような内容になります。

・三僧統:三物ともに道元禅師の時代から。
・卍山等:嗣書は道元禅師、大事・血脈は義介禅師・瑩山禅師の時代から。
・損翁師:三物ともに道元禅師の時代から。

つまり、一応立場としては、卍山・梅峰両師と、損翁師は同じ「一師印証方」でしたが、だからといって、全ての見解が一致することもなかったようです。この辺に、「宗統復古運動」後の煩瑣な議論が生まれる素地があったといって良いと思いますが、それほどに難しい話だったわけですね。なお、三僧統が、「三物」を道元禅師の時代にまで遡らせる典拠とした一文は、『永平広録』に出ています。時代背景を考えますと、卍山本の巻1-111上堂(祖山本では114上堂)であり、以下のようなものです。

上堂に云く。仏仏、仏仏に正伝す。此の中に必ず三物有り。驢胎・馬腹・牛皮。這裏現成払払。

確かに、「三物」とは出ていますが、しかし、その内容は「ロバ」「馬」「牛」に関わるものであり、いわゆる「室内三物」を意味していたとは思えません。現に、最近の研究では、「室内三物」とは関係が無く、これは、あらゆる衆生を救済するための仏祖の能力を指していると考えられています。よって、これを元に、三僧統が「室内三物」を道元禅師の時代にまで遡らせたのは、一失があったというべきで、裁判の意見陳述の場に居合わせた僧侶の中にも、それに気付いた者がいたようです。

なお、損翁師はそのような経緯を知りつつ、しかし、「室内三物」は、『嗣書』と「他の二物」とを分けずに、全て道元禅師の時代にまで遡ると指摘しました。ただその典拠は、若干曖昧であるかもしれません。まず、『嗣書』に関しては、確かに現在でも永平寺に、道元禅師が中国から持って来られたという現物が伝わっています。ただし、『血脈』については「訓訣(口訣)」に留まっています。これでは、とても実証することは出来ません。『大事』については、道元禅師伝を参照して指摘されていますが、これも厳しい・・・理由は、おそらく損翁師がご覧になった文献は、内容からいっても『永平仏法道元禅師紀年録』でありましょう。同著は、永平寺31世・大了愚門の撰述で、延宝6年(1678)に跋が付されており、当記事で採り上げた説示の際には、既に刊行され、参照された可能性が高いです。ただ、同書では「浄公、芙蓉楷祖の法衣、竹箆、白払、並びに宝鏡三昧、五位要訣・・・」と浄公=如浄禅師から授けられた物を挙げていますが、余りに根拠が薄弱で、しかもそれまでに編まれた伝記で同様の記載を見ることが出来ない以上は、後年の付加と見る外はありません。よって、損翁師の根拠も崩れるのです。

なお、弟子である面山和尚はこの説示の後、損翁禅師から直接に教えを受け、大いに幸せな想いをされたようです。正伝の口訣を受けるというのは、いつ何時であっても嬉しいものです。また、この口訣などを用いられて、後に面山和尚は『洞上室内三物論』(『曹洞宗全書』「室中」巻所収)を著しています。これは、三僧統の見解を破しつつ、更に、卍山和尚の見解をも破する内容です。外にも、「室中」巻には多くの「三物論」関連文献が載りますが、ここで紹介するには煩瑣に過ぎるので、省略します。とにかく、些細のこと(とはいえ、「三物」は些細なことではない)でも、多くの議論を歴て「宗統復古運動」が成されたということだけでも知っていただければ幸いです。

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