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Channel: つらつら日暮らし
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十人は十人ながら、千人は千人ながら、万人は万人ながら

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我々自身は、当然に「●●人救済しました」とかいう話でもって自らの宗教的価値を決めたりはしませんので、別に良いのですが、得道する人数についてこういう記述があります。

如今各々も一向に思ヒ切ツて修して見よ。十人は十人ながら得道スベキなり。
    『正法眼蔵随聞記』巻2-11

これは、道元禅師がまだ30代の頃、京都の興聖寺にて弟子の懐弉禅師を始め、何人かの僧や在俗の者達に説かれた教えを記述した『随聞記』から引いた一文です。道元禅師は、各々ひたすらに思い切って修行(この場合は坐禅)をしてみるように促し、そうすれば、「十人は十人ながら」得道すると仰っているわけです。『随聞記』提唱当時、会下の僧が何人いたかが偲ばれます。決して大人数だったわけではないのです。今なら「坐禅サークル」程度の人数・規模だったわけですが、後には50人を超えるとも、或いは説法をするときには毎回聴衆が100人を超えたともされています。

多分に人数が少ないから、「十人」と、実感が持てる数字を出しているのです。ところで、同じような文脈が、道元禅師から数えて4世の法孫に当たる瑩山紹瑾禅師(1264〜1325)に見えます。

故に永平開山曰く、人、道を求ること、世にたかき色に逢はんと思ひ、剛き敵を伐たんと思ひ、堅城を破らんと思ふが如くなるべし。志、既に深きに依て、此色に終に逢はざることなし、彼城、破らざることなし。此心を以て道に飜へさん時、千人は千人ながら、万人は万人ながら、皆是れ悉く得道すべし。
    『伝光録』第52章

「永平開山曰く」とありますが、これは道元禅師の言葉とされています。ただ、若干言い回しが違っていますが、明らかに『随聞記』からの引用でありましょう。

先づ欣求の志の切なるべきなり。たとへば重き宝をぬすまんと思ひ、強き敵をうたんと思ひ、高き色にあはんと思ふ心あらん人は、行住坐臥、事にふれをりにしたがひて、種々の事はかはり来れども、其れに随ひて隙を求め、心に懸クるなり。こノ心あながちに切なるもの、とげずと云フ事なきなり。是ノごとク道ヲ求ムル志切になりなば、あるイは只管打坐の時、あるイは古人の公案に向カはん時、若シクは知識に向カはん時、実の志をもてなさんずる時、高クとも射つべく、深くとも釣リぬべし。是れほどの心発サずして、仏道と云フほどの一念に生死の輪廻をきる大事をば如何が成ぜん。
    『随聞記』巻3

瑩山禅師が仰る「城」の話が無いんですね。ただ、いわんとする文脈は同じです。気になるのは、この文脈を素直に読めば、道元禅師は「志」さえあれば、「只管打坐」「古則公案参究」「知識参禅」の何れでも大事を成ずるとしているわけです。あれ?「古則公案」が入っていますけど、これ大丈夫でしょうか?やっぱり、公案を用いなかったって嘘なんじゃ無いのかな?いや、公案よりも只管打坐に価値を置いたことは事実ですよ、でも、公案使用の有無でもって、かつては宗派の独自性を訴えましたが、それが虚偽では無いか?ということです。

まぁ、それはさておき、瑩山禅師はこの道元禅師の言葉を受けられて、深い志を持って、仏道に翻すとき、「千人は千人ながら、万人は万人ながら」、その悉くが得道すると仰っています。ずいぶんと数が増えました。いうまでもないことですが、これは数の問題では無いことが分かっているので、どんな数を入れても良いわけです。どれくらいの人が得道するか?が問題になっているのでは無くて、得道するか否か?が問題になっており、そこに「深い志」が大きく関わっていることを示しているのです。

さすがに、最近ではその辺を競う新興宗教も減ってきたのかもしれませんが、昔は良くありましたよね。冒頭でも申し上げましたが、「信者●●万人達成」とか謳うような人達が。でも、我々は違っています。我々はどこまでも、「一箇半箇の接得」なのです。数が問題ではありません。誰でも無い、今、目の前にいる「貴方」を導き、諸法の実相を悟っていただく教えです。

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