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「慈愍故」について

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我々が授戒をさせていただく時、お唱えする文言に気になる一節がある。例えば、檀信徒の方が亡くなられたときに執り行われる「檀信徒喪儀法」時に於ける授戒作法だと、こうなっている。

帰戒を授与すること此の如し。今自り以後、如来至信等正覚は、是れ新帰元某甲が大師なり。更に余道に帰依せざれ、南無大慈大悲大哀愍故。
    『曹洞宗行持軌範』350頁

これは、授者である導師が唱えることになっているのだが、三帰戒を授与し、そして受者に対して如来こそが大師であり、他の信仰に帰依することが無いように示しつつ、「南無大慈大悲大哀愍故」と唱えている。ところで、この「南無大慈大悲大哀愍故」は、誰にとってどういう意味で唱えられているのだろうか。直訳をすれば、「帰依します、大慈大悲大哀愍を持つお方よ」とでもなるような気もするが、果たしてそういう理解で良いのだろうか。

よって、もうちょっと分かり易い文章を見てみようと思う。

如来至真無上正等覚は、是れ我が大師なし、我、今、帰依す。今より已後、更に邪魔外道に帰依せず。慈愍したまう故なり。
    『正法眼蔵』「受戒」巻

これは、「受戒」巻に於ける一節で、この場合は生前の受戒でもあるから、受者が自ら「三帰戒」を唱え、その後にこの一節が見える。最後の「慈愍したまう故なり」は、「慈愍故」とされて、三遍唱えることになっているのだが、この部分も分かり難い。三宝、特に仏宝への帰依を表明し、他の信仰を持つ者には帰依しないとしながら、「慈愍故」となっている。これは、「慈しみ、哀れむが故に」と直訳できるが、ここも誰が何に対してそうなのかが分からない。直前に「邪魔外道」と出ているから、その者達との関わりでもあるのか?と思ってしまうが、そんな話でも無いと思う。もし関わりがあるとすれば、今や三宝に帰依することとした自分が、慈悲と憐れみとをもって、邪魔や外道を接化するという意味でもあるのだろうか?どうも違う様な気がする。

それで、中国での文献なども調べてみると、やっぱり『禅苑清規』「沙弥受戒法」や、『勅修百丈清規』に見える受戒法などは、この「慈愍故」が何の解説も無いまま、やはり同じように用いられている。とすれば、これは常套句であるに違いない、そう判断できる。その上で、更に他の文献を見てみると、この辺が鍵になるのでは?とおぼしき一節に行き当たった。

 樹神、仏に白して言く、「世尊よ、麨蜜を食するに由っての故に、身内に風動す。願くは今、此の果を食すべし。亦、まさに食し、兼ねて薬と為して内風を除くことを得るべし」。
 時に世尊、彼を慈愍したまうが故に、即便ち之を受けて告げて言く「汝、今、仏に帰依するや、法に帰依するや」。
 (樹神)答えて言く「是の如し、即ち仏に帰依す、法に帰依す」と。
 諸神の帰依を受くるは、呵梨勒樹神が最初なり。
    『四分律』巻31

「慈愍」という言葉について、これを樹神の帰依を受ける際に用いられていることが分かる。この文章では、樹神が仏法二宝(ここでは三宝では無い)に帰依し、自らの実を捧げるといっているわけだが、それを仏陀が慈愍するが故に受けていることになる。そして合わせて樹神の帰依をも受けている。

ここをもって、先の「受戒」巻を鑑みるに、「慈愍故」とは、直前の「邪魔外道」に懸かるのでは無くて、その前全体の、三帰戒に加え「如来至真無上正等覚は、是れ我が大師なし、我、今、帰依す」の部分に懸かっているといえる。そして、この部分の具体的内容が、その後に続く「邪魔外道に帰依せず」だといえよう。だから、その後に「慈愍故」とあるというのは、訳して考えればこのようになる。「私は、仏に帰依いたします。もう他の信仰には帰依いたしません。仏は慈愍なるが故に、この私の帰依をお受けください」という受者からの願いが込められていると解釈すべきである。

そう考えると、冒頭に見た「檀信徒喪儀法」に於ける「授戒作法」にて、末尾にこうあるのも納得出来る。

衆生仏戒を受くれば、即ち諸仏の位に入る、位大覚に同じゅうし已る、真に是れ諸仏の子なり、南無大慈大悲哀愍摂受。
    『行持軌範』351頁

前半部分は、『梵網経』に見える一節であるが、それを引きながら、ここで授戒作法を完遂した受者は、真に諸仏の子(弟子)であるとしている。同時に、「南無大慈大悲哀愍摂受」としている意味は、授者が受者に成り代わって、大慈大悲なる仏(教義的には釈迦牟尼仏)に南無(=帰依)を表明しつつ、哀愍をもってこの新たなる仏弟子を摂受したまえと願っているのである。そして、最初の文章も同じであろう。大慈大悲なる仏に帰依を表明しつつ、その仏に対し大哀愍なるが故にこの帰依を受けて頂きたいと願っているのだ。こう考えれば、全てが納得である。

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