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前頭に更に最高の峰あり

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道元禅師が永平寺に入り、その運営が安定したと思われる時代の上堂は、ネタも豊富で色々と考えさせられます。これなどはどうでしょうか。

 上堂。
 仏仏授手し、祖祖相伝す。且く道え、箇の什麼をか伝え、箇の什麼をか授く。諸人、若し落処を知らば、便ち見ん三世の諸仏・諸代の祖師、把手して拽くも肯上来せざるを。若し、也、擬議せば、山僧、你が鼻孔裏に在り。
 当に恁麼の時、又、作麼生。
 良久して云く、永平山色妙なりと道うと雖も、前頭に更に最高の峰有り。
    『永平広録』巻4-290上堂

仏が仏に手を伝って授け、祖師と祖師とが相伝えてきた「箇」とは何であるか?道元禅師はいきなりそれを修行僧たちに問うています。もちろん、分かり易くいえば「法」ということになるわけですが、ただ「法」といってしまっては何の面白みもありません。よって、「什麼」といった方が良さそうです。「什麼」とは「何?」ということですが、この疑問形が、我々自身の従来の理解を超え、所謂「既知」に依らない仏法の融通無碍なる様子を示す好語となります。

道元禅師は、その落処、つまりは肝心な落としどころを正しく知れば、三世の諸仏や歴代の祖師方が、手を差し伸べて、その理解した本人を仏祖の世界に導いてくれても、そこに上ることを納得はしないということです。何故なら、既に、その本人は世界の環境・場所が問題なのでは無くて、自身仏法を正しく把握しているわけですから、どこにいても同じなのです。よって、むしろこの娑婆世界にあって、衆生を導くことでしょう。そして、もしそのようなことが分からずまごついたとすれば、その本人の真ん中(=鼻孔)に道元禅師が居坐り、結局のところ、道元禅師にしてやられることになるのです。

さて、肝心なところは、そのような時とは、一体どういうことだ?と聞いています。

そして、しばし無言の間を置かれてから、「永平山色妙なりと道うと雖も、前頭に更に最高の峰有り」と仰っています。これもまた、非常に含蓄のある言葉です。特に、修証観で考えてみると、我々自身にとって、その学びの基本となるような教えであることが分かります。

それは、「永平山色妙なり」といっています。つまり、今ここで修行している永平寺の山、まぁ、吉祥山ということになるのでしょうが、これは素晴らしいといっているわけです。その意味では、修行僧全員にその妙なる悟りが具わっていると述べていることになります。問題はその後です。しかし、前には更に最も高い峰が屹立しているのです。今いる山に於いて悟りが具わっていても、道元禅師はそこでの安住を認めません。安住では無く、素晴らしい山に入ったら、ただ驀直に上らねばならないのです。

この上るという行為こそが修行です。そして、妙なる山色に安住せず、そこから飛び出して、最高の峰を踏破するようにすべきなのです。この最高の峰とは登り終えることなき山、所謂「仏向上」であります。仏祖辺から仏向上への展開、それがこの一句の真意であるといえましょう。つまり、仏向上に進み続けることが、「箇の什麼」に親しむ様子なのです。どこかに安住するのでは無いのです。ただ「坐」しているように見えても「行雲流水」、これが学仏道人の本懐であります。

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