最近、拙僧の関心事は、明治時代に入り、日本に於ける仏教研究が盛んになるに従い、当初大きな影響力を持った浄土真宗の教学の影響で、本来難易を超えて我々に届いていた仏陀の教えがやたらと「深淵・高邁」になり、一方で、「僧侶の能力を課題に求めすぎる」ことに繋がり、そして現実に修行が成就することは無いとしながら、そのような凡夫を救って下さる阿弥陀仏の本願を強調されることに繋がったのでは無いか?と考えているのである。
要するに、仏教を理解する時の根底に、こういった深淵化・高邁化が影響しているのでは無いか?と思ったのである。よって、次のような文章も、かつては「確かにこの通りだなぁ」なんて思っていたけれど、今となっては信じることは出来ない。
いわゆる小乗の人たちは、釈迦の言説に拘泥し、あるいはその理論化に熱中して、その真精神を追求することを忘れた。何よりも大きな過失はそこに人間の実態が無視されたということであろう。われら大地の上なる存在が、煩悩を断じて涅槃を得るということがどうして実際に可能であり得ようか。そのようなことは机上の空論にすぎない。
細川巌氏『龍樹の仏教』ちくま学芸文庫、95頁
今は「小乗の人たち」とは使わない表現である。だが、引用した文章にあるので仕方ない。今回用いた文庫本、元は1992年だそうだが、その頃はまだこういう言い方が許されていたのだろうか?さておき、いわゆるアビダルマの煩瑣な教学を確立することに燃えたかつての論師達の認識に、確かに理論化に熱中したり、人間の実態が無視されたり、という事はあったかもしれない。だが、「われら大地の上なる存在が、煩悩を断じて涅槃を得るということがどうして実際に可能であり得ようか。そのようなことは机上の空論にすぎない」というのは、ここに真宗教学の深い影響を見ることが出来る。真宗教学はどこまでも、時宜相応説に立つ。要するに、今は「末法の世だ」というわけだ。よって、末法の世である以上、修行をしても悟りを得ることは無いとしているのである。
だが、大乗仏教にはおそらくこういう時代性を超えて行くだけの理論もまたあるはずである。それは仏性論であり、本来成仏論であり、それを具現化するための各宗派の修行体系である。余りに有名であるが、江戸時代の白隠慧鶴は次のように述べている。
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
『坐禅和讃』
ごく最初の一節を引いただけであるが、ここでも衆生に於ける本来成仏論が前提され、衆生がその自らの身心を離れて仏道を探る様子を批判している。本来仏なのであるから、修行はその自覚に不足が無ければ良いのである。或いは修行が成就する原動力にもなる。つまり、浄土門は我々禅宗を「聖道門」とはいうのだろうが、その聖道門にはそれなりの、末法の世であっても我々衆生が成仏していく方法を構築しているのだ。
つまり、先ほど挙げた文章で細川氏が、「机上の空論」であるという、断煩悩得涅槃についても、本来成仏論などを用いれば、かなりアッサリと実現されてしまう。そのような教説と正面から対決すること無く、いたずらに「空論」化してしまうことに、今の拙僧は強い違和感を覚える。そして、やはりそのように独断しないで、もっと自分自身を信じて修行していくべきだと思うのである。なお、幾ら修行しても本人の苦悩が消えないという「実感」をもって、やはり念仏門に・・・という人もいるかもしれないが、それはそれで仏道に親しむ方法であろう。だが、我々はそのような「衆生の実感」を超えた法の潤いを感じている。そこが肝心なのである。
よって、もう少し仏教のハードルを下げようでは無いか。それは決して不正では無い。むしろこれまでが厳しすぎたのだ。
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要するに、仏教を理解する時の根底に、こういった深淵化・高邁化が影響しているのでは無いか?と思ったのである。よって、次のような文章も、かつては「確かにこの通りだなぁ」なんて思っていたけれど、今となっては信じることは出来ない。
いわゆる小乗の人たちは、釈迦の言説に拘泥し、あるいはその理論化に熱中して、その真精神を追求することを忘れた。何よりも大きな過失はそこに人間の実態が無視されたということであろう。われら大地の上なる存在が、煩悩を断じて涅槃を得るということがどうして実際に可能であり得ようか。そのようなことは机上の空論にすぎない。
細川巌氏『龍樹の仏教』ちくま学芸文庫、95頁
今は「小乗の人たち」とは使わない表現である。だが、引用した文章にあるので仕方ない。今回用いた文庫本、元は1992年だそうだが、その頃はまだこういう言い方が許されていたのだろうか?さておき、いわゆるアビダルマの煩瑣な教学を確立することに燃えたかつての論師達の認識に、確かに理論化に熱中したり、人間の実態が無視されたり、という事はあったかもしれない。だが、「われら大地の上なる存在が、煩悩を断じて涅槃を得るということがどうして実際に可能であり得ようか。そのようなことは机上の空論にすぎない」というのは、ここに真宗教学の深い影響を見ることが出来る。真宗教学はどこまでも、時宜相応説に立つ。要するに、今は「末法の世だ」というわけだ。よって、末法の世である以上、修行をしても悟りを得ることは無いとしているのである。
だが、大乗仏教にはおそらくこういう時代性を超えて行くだけの理論もまたあるはずである。それは仏性論であり、本来成仏論であり、それを具現化するための各宗派の修行体系である。余りに有名であるが、江戸時代の白隠慧鶴は次のように述べている。
衆生本来仏なり 水と氷の如くにて
水を離れて氷なく 衆生の外に仏なし
衆生近きを知らずして 遠く求むるはかなさよ
たとえば水の中に居て 渇を叫ぶが如くなり
『坐禅和讃』
ごく最初の一節を引いただけであるが、ここでも衆生に於ける本来成仏論が前提され、衆生がその自らの身心を離れて仏道を探る様子を批判している。本来仏なのであるから、修行はその自覚に不足が無ければ良いのである。或いは修行が成就する原動力にもなる。つまり、浄土門は我々禅宗を「聖道門」とはいうのだろうが、その聖道門にはそれなりの、末法の世であっても我々衆生が成仏していく方法を構築しているのだ。
つまり、先ほど挙げた文章で細川氏が、「机上の空論」であるという、断煩悩得涅槃についても、本来成仏論などを用いれば、かなりアッサリと実現されてしまう。そのような教説と正面から対決すること無く、いたずらに「空論」化してしまうことに、今の拙僧は強い違和感を覚える。そして、やはりそのように独断しないで、もっと自分自身を信じて修行していくべきだと思うのである。なお、幾ら修行しても本人の苦悩が消えないという「実感」をもって、やはり念仏門に・・・という人もいるかもしれないが、それはそれで仏道に親しむ方法であろう。だが、我々はそのような「衆生の実感」を超えた法の潤いを感じている。そこが肝心なのである。
よって、もう少し仏教のハードルを下げようでは無いか。それは決して不正では無い。むしろこれまでが厳しすぎたのだ。
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