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無住道曉『沙石集』の紹介(12j)

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前回の【(12i)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。

『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今日も「一 浄土房遁世の事」を見ていきます。これは、遁世し、往生しようとする人達の様々なドラマを紹介します。

 人の病が重く、正念も乱れて臨終に臨む場合には、日頃能くしていた慣習、思い慣らしたこと、心に染まっていることが必ず現れる。近年、疫病で多くの人が病で死んだことを聞いたところ、平生に慣れたことを、口に言い、身にも振る舞ったという。そうであれば、能く能く思って、三業を仏法に相応して、念仏の宿善を勤めるべきである。功夫を入れて、往生の大事を遂げるべきである。
 浄土房の志のように、一念たりともこの身を惜しまず、この世に心を留めなければ、往生の素懐を遂げること、難しいことでは無い。
 (この一段の話は)疎かなる人の心に勧めようとして、詳しく申し上げた。賢い人のためでは無い。
    拙僧ヘタレ訳

引用文で最初にいわれている「正念」についてですが、臨終時に阿弥陀仏が来迎してくれる条件の1つに、この正念にして阿弥陀仏を観仏(これが念仏)するというのがありました。例えば、以下の文脈です。

四種の往生といふは、一つには正念往生、『阿弥陀経』に、「心不顛倒即得往生」と説く、これなり。
    『安心決定鈔』

作者不明の著作だといわれていますが、良く絶対他力の教説を示すものとして評価がありますが、それにこのような一文がございます。ここでは、『阿弥陀経』が出典になっていますが、確かにそのようにございます。よって、正念を如何にして維持するかは重要な問題なのですが、これは余程の精神的鍛練を積んでいなくては無理な話です。実際に、法然上人はこの辺の正念については、そもそも凡夫を救済するため阿弥陀仏の本願があるのだから、正念は阿弥陀仏が得させてくれると仰っています。正念は来迎の条件では無く、来迎の結果正念が起きるのだそうです(『黒谷上人語灯録』参照)。

ただ、一般的には「正念往生」としてまとめられ、条件だと考えられていたのも事実です。無住禅師が仰るのも、その意味での正念です。しかし、実際にどうでしょうか?病が身心を蝕み、実際に死に臨むという時、人は落ち着いていられるでしょうか?そして、無住禅師が仰るのは、その時、人は、日頃思い慣わしていたような考え方や言動が出て来てしまうということなのです。

流行病などで多くの人が亡くなったとき、その人々は、決して正念を維持していたわけでは無いようなのです。それを喩えにして、無住禅師はどこまでも、三業を仏法に相応させる生き方をし、念仏という宿善を積むように訴えています。そして、功夫を入れて、往生の大事を遂げるべきだともいうのです。無住禅師はその良き題材として、「浄土房」のような志の篤い人を出していたのであり、どこまでも自力としての往生を遂げるべきだとも唱えているのです。

【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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