そういえば、最近頓に思うのは、いわゆる浄土教系の経典について釈尊は、在家信者(=菩薩)を相手に説く場合があるなぁ、ということであります。例えば、代表的な経典の1つである『観無量寿経』は、息子の阿闍世王に幽閉された韋提希夫人が相手なわけです。そんな時、こんな一文を見つけたのであります。
仏が跋陀婆の為に 説く所の深三昧あり
是の三昧の宝を得れば 能く諸仏を見ることを得る
跋陀婆羅は是れ在家の菩薩にして、能く頭陀を行ず。仏は是の菩薩のために『般舟三昧経』を説きたもう。般舟三昧は見諸仏現前と名づく。菩薩は是の大宝の三昧を得れば、未だ天眼、天耳を得ずと雖も、而も能く十方の諸仏を見ることを得、亦、諸仏所説の経法を聞く。
龍樹菩薩『十住毘婆沙論』「念仏品」
あぁ、そういえば、『般舟三昧経』の聞き手である跋陀婆羅菩薩って、在家でしたっけ?というので、調べてみると確かに『般舟三昧経』の冒頭に於いて「五戒を持す」とあったり、別の箇所では世尊を食事に招く様子がうかがえるので、確かに在家信者なのでしょう。その在家信者相手に、何故このような優れた三昧を教えるに至ったのか?この辺は、不思議なところではありますが、仏陀の慈悲とでも理解しておくのが良いでしょうか。なお、同経の本文では、最初が「問事品」となっていて、跋陀婆が仏に積年の問いを尋ねるわけです。そして、その問いこそが、仏陀のいうところの、「現在仏悉在前立三昧」だったと言うことです。要するに、不可思議な能力を用いるわけではなく、浄土に行くわけでもなく、今ここで仏に見え、仏の教えを承りたいと願うわけです。
で、結局、跋陀婆は在家信者なわけで、いきなりここから成仏というわけには行かないわけです。この辺、仏典は正直であります。容易に成仏させてくれません。この辺、次のように説かれます。
・すなわち一一の仏の所に於いて、是の三昧を聞いて自ら守学し、復た他人を教えて学せしむ。其の人、是の助歓喜の功徳を持って、其の後、作仏することを得。
・仏、跋陀和に告げたまわく、若し菩薩あって是の三昧を守らば、疾く仏を逮得せん。
同経「師子意仏品」
結局重要なのは、この「般舟三昧」なわけです。この三昧を修行して、比丘達は阿耨菩提を得て、そしてそれは同じく菩薩もそうだというわけです。よって、この段階で出家と在家との違いはそれほど強くありません。むしろ、どちらでも大丈夫なような印象です。「菩薩」という用語、我々曹洞宗は大好きですが、結構扱いに難しいところがあります。これは元々、仏陀釈尊が成道する前の様子を示す言葉だったとされており、また特に在家信者を表すためです。ただ、出家の菩薩という考え方も後には出来ますので、大乗仏教を信奉する者全般という意味にもなってきますが、『般舟三昧経』では、まだ在家信者の意味だったようです。
拙僧自身、どこかこの「菩薩」については、後者の意味でのみ考える傾向があるので、結局そこから跋陀婆羅菩薩についても、出家だと勘違いしていたわけですが、実際には在家であったということになります。それにしても、そう思うとこの菩薩、仏陀世尊に聞いている内容、かなり高度な三昧を欲していたということになります。今ここで三昧に入ることにより、仏陀が現前し、説法を頂戴するような内容だからです。
それで、どうやってその三昧に入るか?ということですが、それについては既に、【セレンディピティとしての阿弥陀仏】で一部を述べていますので、ここで再説はしませんけれども、とりあえず、これが容易に出来るほど、自分の心がコントロールできていれば、そりゃ三昧発得も楽だろうとか思うわけです。
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仏が跋陀婆の為に 説く所の深三昧あり
是の三昧の宝を得れば 能く諸仏を見ることを得る
跋陀婆羅は是れ在家の菩薩にして、能く頭陀を行ず。仏は是の菩薩のために『般舟三昧経』を説きたもう。般舟三昧は見諸仏現前と名づく。菩薩は是の大宝の三昧を得れば、未だ天眼、天耳を得ずと雖も、而も能く十方の諸仏を見ることを得、亦、諸仏所説の経法を聞く。
龍樹菩薩『十住毘婆沙論』「念仏品」
あぁ、そういえば、『般舟三昧経』の聞き手である跋陀婆羅菩薩って、在家でしたっけ?というので、調べてみると確かに『般舟三昧経』の冒頭に於いて「五戒を持す」とあったり、別の箇所では世尊を食事に招く様子がうかがえるので、確かに在家信者なのでしょう。その在家信者相手に、何故このような優れた三昧を教えるに至ったのか?この辺は、不思議なところではありますが、仏陀の慈悲とでも理解しておくのが良いでしょうか。なお、同経の本文では、最初が「問事品」となっていて、跋陀婆が仏に積年の問いを尋ねるわけです。そして、その問いこそが、仏陀のいうところの、「現在仏悉在前立三昧」だったと言うことです。要するに、不可思議な能力を用いるわけではなく、浄土に行くわけでもなく、今ここで仏に見え、仏の教えを承りたいと願うわけです。
で、結局、跋陀婆は在家信者なわけで、いきなりここから成仏というわけには行かないわけです。この辺、仏典は正直であります。容易に成仏させてくれません。この辺、次のように説かれます。
・すなわち一一の仏の所に於いて、是の三昧を聞いて自ら守学し、復た他人を教えて学せしむ。其の人、是の助歓喜の功徳を持って、其の後、作仏することを得。
・仏、跋陀和に告げたまわく、若し菩薩あって是の三昧を守らば、疾く仏を逮得せん。
同経「師子意仏品」
結局重要なのは、この「般舟三昧」なわけです。この三昧を修行して、比丘達は阿耨菩提を得て、そしてそれは同じく菩薩もそうだというわけです。よって、この段階で出家と在家との違いはそれほど強くありません。むしろ、どちらでも大丈夫なような印象です。「菩薩」という用語、我々曹洞宗は大好きですが、結構扱いに難しいところがあります。これは元々、仏陀釈尊が成道する前の様子を示す言葉だったとされており、また特に在家信者を表すためです。ただ、出家の菩薩という考え方も後には出来ますので、大乗仏教を信奉する者全般という意味にもなってきますが、『般舟三昧経』では、まだ在家信者の意味だったようです。
拙僧自身、どこかこの「菩薩」については、後者の意味でのみ考える傾向があるので、結局そこから跋陀婆羅菩薩についても、出家だと勘違いしていたわけですが、実際には在家であったということになります。それにしても、そう思うとこの菩薩、仏陀世尊に聞いている内容、かなり高度な三昧を欲していたということになります。今ここで三昧に入ることにより、仏陀が現前し、説法を頂戴するような内容だからです。
それで、どうやってその三昧に入るか?ということですが、それについては既に、【セレンディピティとしての阿弥陀仏】で一部を述べていますので、ここで再説はしませんけれども、とりあえず、これが容易に出来るほど、自分の心がコントロールできていれば、そりゃ三昧発得も楽だろうとか思うわけです。
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