曹洞宗寺院で行われる「伝道」には幾つかの種類があるが、最近ではネットで教義の伝達なども盛んで、拙ブログもその1つに数えられていると聞く。そして、ネットでの伝道がそれほど盛んではなかった時代には、「施本伝道」と呼ばれる方法も行われており、今でも多くの需要がある。これは、小さな判で少数ページではあるけれども、一定の内容を書き示すことで、季節毎に役立つ情報を適宜お知らせする便利な本を施すことをいう。
曹洞宗でも、宗務庁教化部や同出版部、或いは他の民間企業などから、施本伝道に使えそうな施本が数多く刊行され、世に出されている。以前、NHKの連続テレビ小説では漫画家水木しげる先生の奥様をヒロインとした「ゲゲゲの女房」が放映されたが、その中では「貸本漫画」という書籍の領域を扱っていた。水木先生は漫画家として当初、「紙芝居」から始まり、「貸本漫画」に進み、そして「漫画雑誌」に活動の場を移していくのだが、拙僧などは「施本」について、「貸本漫画」のような位置付けで思っている。まぁ、実際のそれと違うのは、未だに亡びていないことであろう。
さておき、先日、とある民間企業から出されていた『曹洞宗のしおり』という施本を見ていて、拙僧は「?」と思ってしまった。それは、「曹洞宗」という宗派名について、「曹洞宗の呼称」という項目で瑩山禅師の時代に初めて公称されるようになったと説明されていたためである。以前から、このような指摘をされることは、決して珍しいことではない。それこそ、大物の学者先生の中にも、同様の記述を行う人があるほどだ。しかし、拙僧にいわせれば、これは何かの誤解であり、実際の瑩山禅師の著作には、凡そ似つかわしくない指摘なのである。以前、【瑩山禅師と「曹洞宗」呼称問題について】という記事を書いたことがある。今回の記事と似たような動機で書かれたものだが、その時の結論は、瑩山禅師の主著である『伝光録』には「洞下(洞山門下の意)」「洞宗」といったような記述があるものの、結局「曹洞宗」という自称は見当たらないということだ。
なお、「洞宗」と見て、「何だ、やっぱり自称されているではないか」と安心してしまった人に、拙僧から残念なお知らせをしておくと、実は道元禅師直筆の草案本系統『正法眼蔵』「嗣書」巻には、「我が洞山宗門」という表現がある。後には「我が洞山門下」と変更されるが、しかし、系統を踏まえた宗派性の記述といえなくもない。或いは、『示近衛殿法語』という道元禅師の法語には、自らを「仏心宗」と名乗られた形跡もある。よって、宗派名の有無で、両祖を峻別しようとする発想自体、拙僧には納得できないところではある。無論、『正法眼蔵』「仏道」巻の教えは大事だが、あれも、あの巻特有の説示である可能性まで捨てることは出来まい。
さて、瑩山禅師に依る曹洞宗という宗派名の自称だが、そのように結論付けられた原因の1つに、以下の文脈があるといえる。
今月廿八日、恭しく日本曹洞初祖永平和尚の遠忌に遇う。
『瑩山清規』「高祖忌疏」
これは、瑩山禅師が編まれた永光寺の行持次序を示す文献になるけれども、その中に道元禅師を「日本曹洞初祖永平和尚」として尊称されている。これを見れば、やはり瑩山禅師に宗派名自称を当て嵌めたい人は、喝采を送ってくれるかもしれないが、またしても拙僧から残念なお知らせをお伝えしなくてはならない。実は、上記引用した『瑩山清規』は、延宝9年(1681)に大乗寺に住していた月舟宗胡・卍山道白の師資によって刊行されたものである。中世に書写された、梵清本を下敷きにしながら、転々書写されたテキストをそのまま刊行しており、読み方が全く分からないような文脈もあることで知られている。よって、これを信用するのは危険である。実は、「日本曹洞初祖」という表現について、別の記載がされたテキストがある。
今月廿八日、恭しく日本初祖永平大和尚の遠忌に遇う。
禅林寺本『瑩山清規』「高祖忌疏」
如何であろうか?道元禅師を「日本初祖永平大和尚」と表現し、「曹洞」の呼称を用いていない。この禅林寺本というのは、福井県内にある寺院で発見された、『瑩山清規』最古の写本であり、永和2年(1376)に書写されたものである。同写本から『瑩山清規』には、元々「曹洞」の字は無く、後に瑩山禅師とは別の者によって、「曹洞」が書き加えられた事実が分かるのである。結局、ここを瑩山禅師による「曹洞宗」宗派名自称の典拠にしていたのであれば、それは音を立てて崩れてしまうのである。
なお、道元禅師を「日本の初祖」と讃えるのは、同じ『瑩山清規』でも、「芸祖(初祖に同じ)」と道元禅師を讃え、別の文献にも以下のように見える。
然るに師其嫡孫として、臨済の風気に通徹すと雖も、尚ほ浄和尚を訪ひて、一生の事を辨し、本国に帰り、正法を弘通す。実に是れ国の運なり。人の幸なり。怡かも西天二十八祖達磨大師の初て唐土に入るが如し。是れ唐土の初祖とす。師亦是の如し。大宋国五十一祖なりと雖も、今は日本の元祖なり。故に師は此門下の初祖と称し奉る。
『伝光録』第51章
どこにも「曹洞」という呼称はない。むしろ、「日本の元祖」であり「此門下の初祖」と呼ぶべきだとされているからには、どこまでも慎重に「曹洞」の呼称を避けていることが分かる。この点からも、結局当記事のタイトルにある通り、一体何時から瑩山禅師は「曹洞宗」を自称・公称したのか?と問いたいのである。誰か知っている人は教えていただきたい。
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曹洞宗でも、宗務庁教化部や同出版部、或いは他の民間企業などから、施本伝道に使えそうな施本が数多く刊行され、世に出されている。以前、NHKの連続テレビ小説では漫画家水木しげる先生の奥様をヒロインとした「ゲゲゲの女房」が放映されたが、その中では「貸本漫画」という書籍の領域を扱っていた。水木先生は漫画家として当初、「紙芝居」から始まり、「貸本漫画」に進み、そして「漫画雑誌」に活動の場を移していくのだが、拙僧などは「施本」について、「貸本漫画」のような位置付けで思っている。まぁ、実際のそれと違うのは、未だに亡びていないことであろう。
さておき、先日、とある民間企業から出されていた『曹洞宗のしおり』という施本を見ていて、拙僧は「?」と思ってしまった。それは、「曹洞宗」という宗派名について、「曹洞宗の呼称」という項目で瑩山禅師の時代に初めて公称されるようになったと説明されていたためである。以前から、このような指摘をされることは、決して珍しいことではない。それこそ、大物の学者先生の中にも、同様の記述を行う人があるほどだ。しかし、拙僧にいわせれば、これは何かの誤解であり、実際の瑩山禅師の著作には、凡そ似つかわしくない指摘なのである。以前、【瑩山禅師と「曹洞宗」呼称問題について】という記事を書いたことがある。今回の記事と似たような動機で書かれたものだが、その時の結論は、瑩山禅師の主著である『伝光録』には「洞下(洞山門下の意)」「洞宗」といったような記述があるものの、結局「曹洞宗」という自称は見当たらないということだ。
なお、「洞宗」と見て、「何だ、やっぱり自称されているではないか」と安心してしまった人に、拙僧から残念なお知らせをしておくと、実は道元禅師直筆の草案本系統『正法眼蔵』「嗣書」巻には、「我が洞山宗門」という表現がある。後には「我が洞山門下」と変更されるが、しかし、系統を踏まえた宗派性の記述といえなくもない。或いは、『示近衛殿法語』という道元禅師の法語には、自らを「仏心宗」と名乗られた形跡もある。よって、宗派名の有無で、両祖を峻別しようとする発想自体、拙僧には納得できないところではある。無論、『正法眼蔵』「仏道」巻の教えは大事だが、あれも、あの巻特有の説示である可能性まで捨てることは出来まい。
さて、瑩山禅師に依る曹洞宗という宗派名の自称だが、そのように結論付けられた原因の1つに、以下の文脈があるといえる。
今月廿八日、恭しく日本曹洞初祖永平和尚の遠忌に遇う。
『瑩山清規』「高祖忌疏」
これは、瑩山禅師が編まれた永光寺の行持次序を示す文献になるけれども、その中に道元禅師を「日本曹洞初祖永平和尚」として尊称されている。これを見れば、やはり瑩山禅師に宗派名自称を当て嵌めたい人は、喝采を送ってくれるかもしれないが、またしても拙僧から残念なお知らせをお伝えしなくてはならない。実は、上記引用した『瑩山清規』は、延宝9年(1681)に大乗寺に住していた月舟宗胡・卍山道白の師資によって刊行されたものである。中世に書写された、梵清本を下敷きにしながら、転々書写されたテキストをそのまま刊行しており、読み方が全く分からないような文脈もあることで知られている。よって、これを信用するのは危険である。実は、「日本曹洞初祖」という表現について、別の記載がされたテキストがある。
今月廿八日、恭しく日本初祖永平大和尚の遠忌に遇う。
禅林寺本『瑩山清規』「高祖忌疏」
如何であろうか?道元禅師を「日本初祖永平大和尚」と表現し、「曹洞」の呼称を用いていない。この禅林寺本というのは、福井県内にある寺院で発見された、『瑩山清規』最古の写本であり、永和2年(1376)に書写されたものである。同写本から『瑩山清規』には、元々「曹洞」の字は無く、後に瑩山禅師とは別の者によって、「曹洞」が書き加えられた事実が分かるのである。結局、ここを瑩山禅師による「曹洞宗」宗派名自称の典拠にしていたのであれば、それは音を立てて崩れてしまうのである。
なお、道元禅師を「日本の初祖」と讃えるのは、同じ『瑩山清規』でも、「芸祖(初祖に同じ)」と道元禅師を讃え、別の文献にも以下のように見える。
然るに師其嫡孫として、臨済の風気に通徹すと雖も、尚ほ浄和尚を訪ひて、一生の事を辨し、本国に帰り、正法を弘通す。実に是れ国の運なり。人の幸なり。怡かも西天二十八祖達磨大師の初て唐土に入るが如し。是れ唐土の初祖とす。師亦是の如し。大宋国五十一祖なりと雖も、今は日本の元祖なり。故に師は此門下の初祖と称し奉る。
『伝光録』第51章
どこにも「曹洞」という呼称はない。むしろ、「日本の元祖」であり「此門下の初祖」と呼ぶべきだとされているからには、どこまでも慎重に「曹洞」の呼称を避けていることが分かる。この点からも、結局当記事のタイトルにある通り、一体何時から瑩山禅師は「曹洞宗」を自称・公称したのか?と問いたいのである。誰か知っている人は教えていただきたい。
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