前、宗門でも有名な或る老師とお話ししていたところ、今後の人材とはどういうところから見出していくか?みたいな議論になりました。すると、その老師は「俺の世代ではもうダメだ。あんた(=拙僧)でもギリギリだ。もう10歳若い世代で活きが良いのがいるんなら、何でも教えてあげるんだけど・・・」というようなことを仰っておいででした。
拙僧、この意見が頭を離れずに、今に至っているのですが、先日読んだ或る文章に、これに関係するようなことが書いてありましたので、今日はそれを見ていきたいと思います。
(私はすでに出家して修行していたが、その年の)12月になったら師は、私を郷里に帰し、父母に会って来るようにといわれた。両親は大いに喜び、隣近所の友達を呼んで集め、様々に饗応して日頃の疲れを癒してくれた。
その子供たちが色々と話をし終わって、「宗胡殿、望みはどのようなものですか」と聞いた。
私は次のように答えた「出家の身であれば、ただ良い名僧となることを思うのみではあるが、もしこの肥前百万石(=月舟は肥前の出身)を私に賜るのであれば、還俗したい」と。
その時、友達は一斉に手を打って笑っていたが、賢しらな童子がいて問うには「その知行を得て、何をするんですか」と。
私が答えるには「私が大名となって、私より勝れた出家者を五人も十人も取り立てれば大きな功徳ではないか」といえば、まだまだ分別の付いていない子供たちは、「なるほど」と感じ入っていた・・・
『月舟和尚夜話』拙僧ヘタレ訳
この「宗胡殿」というのは、江戸時代初期に金沢大乗寺の住持として、様々な活動を行った月舟宗胡禅師のことです(略歴はリンク先のWikiを読んで下さい)。月舟禅師は、自分自身が退いても、さらに優れた僧侶を供養したいという想いがあったようです。まぁ、結果的に肥前100万石を得ることはなく、諸方での参学を終えて、大乗寺に入るということになっていますけどね。ただ、拙僧的には、この「自分が引いても他人を立てる」という観点に、大いに共感しています。そして、先に挙げた或る老師の話にもつながってきます。どうしても、今の日本では「勝ち組・負け組」といった二分法の上で得られる幸せしかないと思っている人が多いのか、この「引く」ということをせずに、どこまでも我を張り、逆に自分を含めた周囲を不幸のどん底にたたき込む場合が多いように思われます。或いは、現在勝っている人に対して僻んだり、或いは、勝っていると思っている人が負けているという人を貶めたり、という感じです。
拙僧的には、既にこの二分法の上に立とうとしている段階で、両方とも負けであろうと思います。それは、より大きな幸せに到るための、最初の「喜捨」を行おうとしないからです。或いは道元禅師の「はなてば、てにみてり、一多のきはならむや。」(『弁道話』)という言葉を思うべきかもしれません。放てば放っただけ、その中には満ちるものがあるというのです。物理的に得られるものでは無くて、法や、幸せといった事象について、これは精確な表現であるといえましょう。
ですから、月舟は、自分自身で出家道を貫かなくても、他にそれを出来る人をバックアップすることで、当初の目的を達しようとするのです。当初の目的とは、善行の功徳を積んで、安楽を得ることに他ならないわけですが(極言すれば、我々が出家する理由も本質的にはこれである)、最近では、どうしても他人がやっていることは、自分もやってみたいという人が多いのか、はたまた他人に行わせるという信頼を構築できないのか、こういう「自分」だけで頑張るのではなくて、「他人に任す」という発想をする人が少ないのかもしれません。そして、それは不幸です。
ただし、正信のたすくるところ、まどひをはなるるみちあり。また、癡老の比丘、黙坐せしをみて、設斎の信女、さとりをひらきし、これ智によらず、文によらず、ことばをまたず、かたりをまたず、ただしこれ正信にたすけられたり。
道元禅師『弁道話』
ここなども、自分で坐禅を行うだけではなくて、坐禅人を供養した女性が、「正信」に助けられて悟りを開いたことが讃歎されています。このような発想を元に、月舟が自ら引こうとしているのは明らかで、この「他人に施すという功徳」について、現代の我々は、その内容だけではなくて、「他人に任す」という観点から、再評価すべきなのかもしれません。そして、この段階に至れば、出家も在家も無いといえましょう。「正信」があるからこそ悟るのであり、それは理屈や行ではないことは、道元禅師が示される通りです。
拙僧も、拙僧よりも優れている人が大勢いるようなら、とっとと研究や、こんなブログも辞めて、その人たちをバックアップしたいところです。「だったらとっとと辞めろ」とかいう声がたくさん聞こえてきそう(笑)でも辞めないのは、すでにそういう人たちに囲まれているのに、増上慢であるから気付かないだけかもしれません。もしそうなら、拙僧は救いようが無い愚痴ですね・・・
この記事を評価して下さった方は、
を1日1回押していただければ幸いです(反応が無い方は[Ctrl]キーを押しながら再度押していただければ幸いです)。
これまでの読み切りモノ〈曹洞宗8〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。
拙僧、この意見が頭を離れずに、今に至っているのですが、先日読んだ或る文章に、これに関係するようなことが書いてありましたので、今日はそれを見ていきたいと思います。
(私はすでに出家して修行していたが、その年の)12月になったら師は、私を郷里に帰し、父母に会って来るようにといわれた。両親は大いに喜び、隣近所の友達を呼んで集め、様々に饗応して日頃の疲れを癒してくれた。
その子供たちが色々と話をし終わって、「宗胡殿、望みはどのようなものですか」と聞いた。
私は次のように答えた「出家の身であれば、ただ良い名僧となることを思うのみではあるが、もしこの肥前百万石(=月舟は肥前の出身)を私に賜るのであれば、還俗したい」と。
その時、友達は一斉に手を打って笑っていたが、賢しらな童子がいて問うには「その知行を得て、何をするんですか」と。
私が答えるには「私が大名となって、私より勝れた出家者を五人も十人も取り立てれば大きな功徳ではないか」といえば、まだまだ分別の付いていない子供たちは、「なるほど」と感じ入っていた・・・
『月舟和尚夜話』拙僧ヘタレ訳
この「宗胡殿」というのは、江戸時代初期に金沢大乗寺の住持として、様々な活動を行った月舟宗胡禅師のことです(略歴はリンク先のWikiを読んで下さい)。月舟禅師は、自分自身が退いても、さらに優れた僧侶を供養したいという想いがあったようです。まぁ、結果的に肥前100万石を得ることはなく、諸方での参学を終えて、大乗寺に入るということになっていますけどね。ただ、拙僧的には、この「自分が引いても他人を立てる」という観点に、大いに共感しています。そして、先に挙げた或る老師の話にもつながってきます。どうしても、今の日本では「勝ち組・負け組」といった二分法の上で得られる幸せしかないと思っている人が多いのか、この「引く」ということをせずに、どこまでも我を張り、逆に自分を含めた周囲を不幸のどん底にたたき込む場合が多いように思われます。或いは、現在勝っている人に対して僻んだり、或いは、勝っていると思っている人が負けているという人を貶めたり、という感じです。
拙僧的には、既にこの二分法の上に立とうとしている段階で、両方とも負けであろうと思います。それは、より大きな幸せに到るための、最初の「喜捨」を行おうとしないからです。或いは道元禅師の「はなてば、てにみてり、一多のきはならむや。」(『弁道話』)という言葉を思うべきかもしれません。放てば放っただけ、その中には満ちるものがあるというのです。物理的に得られるものでは無くて、法や、幸せといった事象について、これは精確な表現であるといえましょう。
ですから、月舟は、自分自身で出家道を貫かなくても、他にそれを出来る人をバックアップすることで、当初の目的を達しようとするのです。当初の目的とは、善行の功徳を積んで、安楽を得ることに他ならないわけですが(極言すれば、我々が出家する理由も本質的にはこれである)、最近では、どうしても他人がやっていることは、自分もやってみたいという人が多いのか、はたまた他人に行わせるという信頼を構築できないのか、こういう「自分」だけで頑張るのではなくて、「他人に任す」という発想をする人が少ないのかもしれません。そして、それは不幸です。
ただし、正信のたすくるところ、まどひをはなるるみちあり。また、癡老の比丘、黙坐せしをみて、設斎の信女、さとりをひらきし、これ智によらず、文によらず、ことばをまたず、かたりをまたず、ただしこれ正信にたすけられたり。
道元禅師『弁道話』
ここなども、自分で坐禅を行うだけではなくて、坐禅人を供養した女性が、「正信」に助けられて悟りを開いたことが讃歎されています。このような発想を元に、月舟が自ら引こうとしているのは明らかで、この「他人に施すという功徳」について、現代の我々は、その内容だけではなくて、「他人に任す」という観点から、再評価すべきなのかもしれません。そして、この段階に至れば、出家も在家も無いといえましょう。「正信」があるからこそ悟るのであり、それは理屈や行ではないことは、道元禅師が示される通りです。
拙僧も、拙僧よりも優れている人が大勢いるようなら、とっとと研究や、こんなブログも辞めて、その人たちをバックアップしたいところです。「だったらとっとと辞めろ」とかいう声がたくさん聞こえてきそう(笑)でも辞めないのは、すでにそういう人たちに囲まれているのに、増上慢であるから気付かないだけかもしれません。もしそうなら、拙僧は救いようが無い愚痴ですね・・・
この記事を評価して下さった方は、

これまでの読み切りモノ〈曹洞宗8〉は【ブログ内リンク】からどうぞ。