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無住道曉『沙石集』の紹介(12k)

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前回の【(12j)】に引き続いて、無住道曉の手になる『沙石集』の紹介をしていきます。

『沙石集』は全10巻ですが、この第10巻が、最後の巻になります。第10巻目は、様々な人達(出家・在家問わず)の「遁世」や「発心」、或いは「臨終」などが主題となっています。世俗を捨てて、仏道への出離を願った人々を描くことで、無住自身もまた、自ら遁世している自分のありさまを自己認識したのでしょう。今日からは、「二 吉野の執行遁世の事」を見ていきます。従来、非常に乱暴で身勝手だった吉野の金峰山寺の執行(しゅぎょう)が、心を改めて遁世し、往生しようと願った話を紹介します。

 吉野(金峰山寺)の執行(寺務を掌る僧職)は、その一門の中で威勢のある者が、武力で奪い取る風習があり、今の執行の父が執行になった時は、弟も武勇の道に長けて、勢いもあったので、兄の執行から地位を奪い取って、執行になろうとしていた。兄も用心して隙を見せることが無かった。
 このようなことをしていたときに、然るべき因縁があったのか、(兄の)執行が思うには「一生の栄華など永続的なものではない。来世の快楽をこそ、願うべきである。この執行という地位があるから、兄弟の仲が悪く、用心して隙も無いから、後世や菩提のことには考えが及ばない。そうして、無常の殺鬼に命を獲られるときには、空しく捨てていかねばならない道なのに、その用意は無く、合戦の支度ばかりしていては、人間として生まれた思い出も出来ない。意味の無い企てだ」と思って、執行の地位を弟に譲り、或る山里にて遁世した。その後は、西大寺の思円房上人(=興正菩薩叡尊)を請して戒を受け、京都からは禅師(=詳細不明。円爾か?)を請して、禅宗の教えを聞き、修行を怠ること無く、臨終の様子は素晴らしく、既に亡くなったといわれている。
 さて、弟の執行だが、「僅かに一生の楽しみでしか無い執行の地位でさえも、羨ましいと思って、奪い取ろうと思った。しかし、物を羨ましいと思うことについては、遁世し、臨終が素晴らしいことほど、羨ましいことがあろうか」といって、執行だった兄の子息に地位を譲って、弟も遁世してしまった。有り難い宿善だといえよう。その今の執行も遁世の志があるという。前世の契りがあって、互いに善知識となるべき人だったのかと思えるほどに、貴く感じられる。
 善悪の縁は、その両方ともに良く考えれば、仏道に入る便宜になるのである。
    拙僧ヘタレ訳

これまでは浄土房と呼ばれた人の遁世、そして往生の説話を元にした、無住道曉禅師の浄土教観を見てきました。概して、兼修念仏的といいますか、専修念仏系の人にいわせれば、自力門的な念仏、聖道門的な念仏であったといえましょう。ただ、こういうところから、当時、幾ら専修念仏宗が流行っていても、それに抗っていた、或る意味伝統的な念仏観を持っていた人は、それこそ僧侶には多かったはずで、無住禅師もその一人だったわけです。

さて、話は変わりますが、今日からは場面が変わり、吉野の金峰山の話になります。「執行(しゅぎょう)」という役職に関わる話なのですが、これは代々或る家の人が受け嗣いでいたようなのです。しかし、一門の中で争いをし、その結果勝ち取るべき役職でもあったようで、世俗よりも世俗的な状況だったようです。

しかし、その場面も変化します。

それは、或る人の「発心」が原因です。「発心」というのは、「発菩提心」の略とされますが、実に仏道を求める心を発すことです。多くの場合、無常観を根底に発すことが多いのですが、この場合は、兄弟で執行を争っていた時に、兄が、現世の快楽など一時的な物だから、来世以降の永遠なる快楽(けらく)を求めて発心したのです。

このような考えは、例えば聖徳太子が臨終に述べたともされる「世間虚仮、唯仏是真」にも通じる考え方ですし、或いは恵心僧都源信はこのようにも述べています。

 「諸法の性は、一切、空・無我なりと通達して、もつぱら浄仏土を求むれば、かならずかくのごとき浄刹を成ず」(大経・下)と。
 ゆゑに浄土に往生せんがために、先づこの界を厭離すべし。
    『往生要集』巻中

源信もまた、『無量寿経』を引用しながら、この我々の世界にある一切の事象(=諸法)が、空であり無我であると会得し、だからこそ、専らに浄らかな仏土を求めれば、必ずそちらに行けるというわけです。こういう教えを直接に見たかは分かりませんが、修行は律僧を招いて戒を受け、更に禅師を招いて心地の枢要を聞き、自ら修行も続け、結果として素晴らしい臨終を迎えたというのです。

このような素晴らしい道心は、必ず周囲の人をも変えます。執行の座を争っていた兄の様子を見、弟もまた道心を発し遁世するのです。道元禅師はかつて「愛語、よく回天のちからあることを、学すべきなり」(「四摂法」巻)と述べられましたが、これはいわゆる言葉だけに限らないといえましょう。その生き方もまた、大いなる「愛語」となって伝わるのです。そして、その愛語の前提となる「道心」に、人は共鳴するのです。

【参考資料】
・筑土鈴寛校訂『沙石集(上・下)』岩波文庫、1943年第1刷、1997年第3刷
・小島孝之訳注『沙石集』新編日本古典文学全集、小学館・2001年

これまでの連載は【ブログ内リンク】からどうぞ。

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