様々な実証的研究を読み、知識として釈迦牟尼仏が大乗仏教を説かず、それが後代に成立した教えであることは、もちろん知っています。しかし、敢えて申し上げれば、拙僧にとっては大乗仏教こそが釈迦牟尼仏の真の教えであり、仏陀が大乗仏教を説いたことは紛れもない事実です(拙僧にとって)。このような態度を、人は理解出来ないようで、こういう話をすると、不思議な顔をする人がいます。少なからずいます。しかし、拙僧が申し上げていることには、何の正統性も無いわけではありません。むしろ、拙僧はいわゆる「アイロニカルな没入」を行っているのです。以前、【オタク仏教と普遍性】という記事でも採り上げましたが、この概念は、以下の文脈で知られます。
オウム信者のハルマゲドン幻想に対する態度や、さらにオタクのアニメ等の虚構に対する態度は、まさにアイロニカルな没入として記述することができる。彼らは、それが幻想=虚構に過ぎないことをよく知っているのだが、それでも、不動の「現実」であるかのように振る舞うのである。オタクたちは、虚構と現実を取り違えていると言う、評論家的な批判が見逃しているのは、意識と行動の間のこうした捩れである。彼らに、いくら、「あれは虚構に過ぎない」と主張しても意味はない。彼らは、それをよく知っているからである。
大澤真幸氏『不可能性の時代』岩波新書、105頁
実は、この辺は曹洞宗学に於いても、衛藤即応先生が「歴史と宗義」という論文で採り上げた重要な課題であり、拙僧は一時、何故虚構としか思われないような歴史観が、実際の歴史よりも力を持ち得る場合があるのか?を研究したことがあります。結果的には、我々自身の「知」の段階の問題として取り扱い、特にアメリカのプラグマティズムを牽引したクワインが唱えた知の連続主義などによって、乗り越えようとした記憶がございます。これは、そもそも我々人間の持つ知の体系の中に、自然主義と超越論的態度とが重なり合っていて、綱引きをしているようなものであるといえます。そこで、両者が連続しているとする時、虚構的な文脈が、それとして知の体系の中で存立できることになるわけです。
しかし、ここで指摘されている「アイロニカルな没入」は、そんな機構よりももっと簡単に、自然主義と超越論的態度とが重なり合っています。ただし、「アイロニカル」に。この「アイロニカル」の意味ですが、これは現実に対する相対主義の態度を採ることを意味しています。素朴に生身の仏陀のみ信じている人、或いは素朴に超越的存在としての仏陀のみ信じている人、或いは一切信じていない人、様々なあり方をする「信念」に対し、相対主義の如く冷ややかに、アイロニカルな態度を採っているわけです。拙僧は、禅宗でも用いる、次の文脈を「アイロニカルな没入」だと解釈しています。
浄法界の身、本出没無し、大悲の願力、去来を示現す。
これは、曹洞宗の三仏忌などの法要で回向文に使われる常套句ですが、元々の歴史を知っている人ならば、仏陀の入般涅槃した事実を乗り越えるために、逆に仏陀の常住法身が大乗仏教で説かれたと御存知でしょう。ところが、このような句ですと、逆に仏陀の入滅を含めた生涯の一切が、本来出没しない法身に於ける「慈悲の示現」だったりするわけです。見事に逆転しています。このような営みの全体が、アイロニカルに感じられるわけです。
そして、この状態で以下の一文を見ると、非常に悩ましい結論を得ることになります。
なんじ仏子、仏弟子自り、外道・悪人、六親・一切の善知識に及ぶまで、応に一々に教えて大乗経律を受持せしむべし。応に教えて義理を解せしめ、使ち菩提心を発し、十発趣心・十長養心・十金剛心の、三十心の中に於いて、一々に其の次第法用を解せしむべし。而も菩薩、悪心・瞋心を以て、横に、他の二乗・声聞の経律、外道邪見の論等を教えれば、軽垢戒を犯す。
第十五法化違宗戒
仏弟子たる者は、仏道以外の信仰を持つ者、悪人や自分の親族などに至るまで、とにかく大乗経典・戒律を受持させるべきだというのです。受持というのは、理解させ会得させることです。だからこそ、その必要に応じて、意義や道理を理解させて、大乗の菩薩に相応しい菩提心を発させ、「三十心」の中で、法の様子を理解させるべきなのです。この「三十心」とは、引用文中にもある通りで、具体的には『梵網経(上)』に見える通りです。
・十発趣心:一捨心。二戒心。三忍心。四進心。五定心。六慧心。七願心。八護心。九喜心。十頂心。
・十長養心:一慈心。二悲心。三喜心。四捨心。五施心。六好語心。七益心。八同心。九定心。十慧心。
・十金剛心:一信心。二念心。三廻向心。四達心。五直心。六不退心。七大乗心。八無相心。九慧心。十不壊心。
本文ではこの一々について解説がされていますので、これを理解していれば、先の戒文の如くに解説し、理解させることも可能になります。ちょうど、今回の記事が「大乗」に関連しているので、「十金剛心」の「七大乗心」について、その解説を見ていきたいと思います。
なんじ仏子、独大乗心とは、解解一空の故に、一切の行心は一乗と名づく。一空智に乗じて、智乗・行乗は乗智なり。心心は任運任用任載して一切衆生を任じて、三界河・結縛河・生滅河を度す。行者は任用載用に坐乗して、智心は仏海に趣入す。故に一切衆生、未だ空智の任用を得ず。名づけて大乗と為さず、但だ乗得度苦海と名づく。
なお、ここに見るように、空のありようと智のありようとが良く重なり合っています。やはり大乗は空観に基づく無礙・無縛・任運自在の仏道を行じていくことが肝心だといえましょう。
ところで、話を戻しますが、この戒文について天台智?はこう述べています。
人をして正道を失せしむるが故に制す。
『菩薩戒義疏(下)』
ここでいう正道とは、大乗仏教のことであります。菩薩道のことであります。それが失われることについて、智?は危惧しています。また、道元禅師の直弟子達も、以下のように指摘します。
悪心を以て横(ほしいまま)に教へば、二乗・声聞の経律、外道・邪見の論等、尤も罪なり。
経豪禅師『梵網経略抄』
二乗の経律、仏道以外の論を採り上げ、それを以てほしいままに教えを施せば、それは大いに罪になるとしています。なるほど、日本が大乗仏教の国であることは疑いようも無いわけですが、それに至るには、こういう様々な文脈も影響していることでしょう。よって、或る時だけの状況を論って、その是非を問うことは間違っています。なお、「『梵網経』はゴータマ=ブッダが制定した戒では無い」とかいう「知識」をもって反論する人もいるかもしれませんが、そこはちょっと的が外れているように思います。まず、歴史的には『梵網経』は仏祖所伝として信じられてきたことに対する言及がありませんので、現状の影響を解明するには意味が無い発言です。また、現状も、これを仏祖所伝だと「信じる」可能性についても配慮が無いように思われます。「信教の自由」は「知識的正当性」よりも優先されなくてはなりません。
こんなことを書いていると、ジョージ=オーウェルが『一九八四年』で書いた「二重思考」のようになるのでは?と拙僧自身も思わないわけでは無いですが、政治体制としては問題でも、宗教としては問題無いか、とも思っています。だって、宗教なんだから。さておき、こういう大乗仏教の優位が、戒のレベルで求められている事実、これまでは余り配慮しませんでしたが、しかし、やっぱり大きかっただろうと思う次第です。いや、思想的な影響をいうのではありません。これが、刷り込まれて当たり前のようになっていくことに影響を感じるのであります。
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オウム信者のハルマゲドン幻想に対する態度や、さらにオタクのアニメ等の虚構に対する態度は、まさにアイロニカルな没入として記述することができる。彼らは、それが幻想=虚構に過ぎないことをよく知っているのだが、それでも、不動の「現実」であるかのように振る舞うのである。オタクたちは、虚構と現実を取り違えていると言う、評論家的な批判が見逃しているのは、意識と行動の間のこうした捩れである。彼らに、いくら、「あれは虚構に過ぎない」と主張しても意味はない。彼らは、それをよく知っているからである。
大澤真幸氏『不可能性の時代』岩波新書、105頁
実は、この辺は曹洞宗学に於いても、衛藤即応先生が「歴史と宗義」という論文で採り上げた重要な課題であり、拙僧は一時、何故虚構としか思われないような歴史観が、実際の歴史よりも力を持ち得る場合があるのか?を研究したことがあります。結果的には、我々自身の「知」の段階の問題として取り扱い、特にアメリカのプラグマティズムを牽引したクワインが唱えた知の連続主義などによって、乗り越えようとした記憶がございます。これは、そもそも我々人間の持つ知の体系の中に、自然主義と超越論的態度とが重なり合っていて、綱引きをしているようなものであるといえます。そこで、両者が連続しているとする時、虚構的な文脈が、それとして知の体系の中で存立できることになるわけです。
しかし、ここで指摘されている「アイロニカルな没入」は、そんな機構よりももっと簡単に、自然主義と超越論的態度とが重なり合っています。ただし、「アイロニカル」に。この「アイロニカル」の意味ですが、これは現実に対する相対主義の態度を採ることを意味しています。素朴に生身の仏陀のみ信じている人、或いは素朴に超越的存在としての仏陀のみ信じている人、或いは一切信じていない人、様々なあり方をする「信念」に対し、相対主義の如く冷ややかに、アイロニカルな態度を採っているわけです。拙僧は、禅宗でも用いる、次の文脈を「アイロニカルな没入」だと解釈しています。
浄法界の身、本出没無し、大悲の願力、去来を示現す。
これは、曹洞宗の三仏忌などの法要で回向文に使われる常套句ですが、元々の歴史を知っている人ならば、仏陀の入般涅槃した事実を乗り越えるために、逆に仏陀の常住法身が大乗仏教で説かれたと御存知でしょう。ところが、このような句ですと、逆に仏陀の入滅を含めた生涯の一切が、本来出没しない法身に於ける「慈悲の示現」だったりするわけです。見事に逆転しています。このような営みの全体が、アイロニカルに感じられるわけです。
そして、この状態で以下の一文を見ると、非常に悩ましい結論を得ることになります。
なんじ仏子、仏弟子自り、外道・悪人、六親・一切の善知識に及ぶまで、応に一々に教えて大乗経律を受持せしむべし。応に教えて義理を解せしめ、使ち菩提心を発し、十発趣心・十長養心・十金剛心の、三十心の中に於いて、一々に其の次第法用を解せしむべし。而も菩薩、悪心・瞋心を以て、横に、他の二乗・声聞の経律、外道邪見の論等を教えれば、軽垢戒を犯す。
第十五法化違宗戒
仏弟子たる者は、仏道以外の信仰を持つ者、悪人や自分の親族などに至るまで、とにかく大乗経典・戒律を受持させるべきだというのです。受持というのは、理解させ会得させることです。だからこそ、その必要に応じて、意義や道理を理解させて、大乗の菩薩に相応しい菩提心を発させ、「三十心」の中で、法の様子を理解させるべきなのです。この「三十心」とは、引用文中にもある通りで、具体的には『梵網経(上)』に見える通りです。
・十発趣心:一捨心。二戒心。三忍心。四進心。五定心。六慧心。七願心。八護心。九喜心。十頂心。
・十長養心:一慈心。二悲心。三喜心。四捨心。五施心。六好語心。七益心。八同心。九定心。十慧心。
・十金剛心:一信心。二念心。三廻向心。四達心。五直心。六不退心。七大乗心。八無相心。九慧心。十不壊心。
本文ではこの一々について解説がされていますので、これを理解していれば、先の戒文の如くに解説し、理解させることも可能になります。ちょうど、今回の記事が「大乗」に関連しているので、「十金剛心」の「七大乗心」について、その解説を見ていきたいと思います。
なんじ仏子、独大乗心とは、解解一空の故に、一切の行心は一乗と名づく。一空智に乗じて、智乗・行乗は乗智なり。心心は任運任用任載して一切衆生を任じて、三界河・結縛河・生滅河を度す。行者は任用載用に坐乗して、智心は仏海に趣入す。故に一切衆生、未だ空智の任用を得ず。名づけて大乗と為さず、但だ乗得度苦海と名づく。
なお、ここに見るように、空のありようと智のありようとが良く重なり合っています。やはり大乗は空観に基づく無礙・無縛・任運自在の仏道を行じていくことが肝心だといえましょう。
ところで、話を戻しますが、この戒文について天台智?はこう述べています。
人をして正道を失せしむるが故に制す。
『菩薩戒義疏(下)』
ここでいう正道とは、大乗仏教のことであります。菩薩道のことであります。それが失われることについて、智?は危惧しています。また、道元禅師の直弟子達も、以下のように指摘します。
悪心を以て横(ほしいまま)に教へば、二乗・声聞の経律、外道・邪見の論等、尤も罪なり。
経豪禅師『梵網経略抄』
二乗の経律、仏道以外の論を採り上げ、それを以てほしいままに教えを施せば、それは大いに罪になるとしています。なるほど、日本が大乗仏教の国であることは疑いようも無いわけですが、それに至るには、こういう様々な文脈も影響していることでしょう。よって、或る時だけの状況を論って、その是非を問うことは間違っています。なお、「『梵網経』はゴータマ=ブッダが制定した戒では無い」とかいう「知識」をもって反論する人もいるかもしれませんが、そこはちょっと的が外れているように思います。まず、歴史的には『梵網経』は仏祖所伝として信じられてきたことに対する言及がありませんので、現状の影響を解明するには意味が無い発言です。また、現状も、これを仏祖所伝だと「信じる」可能性についても配慮が無いように思われます。「信教の自由」は「知識的正当性」よりも優先されなくてはなりません。
こんなことを書いていると、ジョージ=オーウェルが『一九八四年』で書いた「二重思考」のようになるのでは?と拙僧自身も思わないわけでは無いですが、政治体制としては問題でも、宗教としては問題無いか、とも思っています。だって、宗教なんだから。さておき、こういう大乗仏教の優位が、戒のレベルで求められている事実、これまでは余り配慮しませんでしたが、しかし、やっぱり大きかっただろうと思う次第です。いや、思想的な影響をいうのではありません。これが、刷り込まれて当たり前のようになっていくことに影響を感じるのであります。
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