曹洞宗で高祖と仰ぐ道元禅師が、中国で本師・天童如乗禅師に参じた際の問答を記録した『宝慶記』という文献があるが、そこに次のようにある。
宝慶元年七月初二日、方丈に参ず。
まぁ、新旧の暦の違いはあるから、実際にはもっと暑い時期のことだったのだろうけど、道元禅師は宝慶元年(1225)7月2日に如浄禅師の室に入り、参じている。ところで、良くこの記述に基づいて、道元禅師が如浄禅師に参じ始めたのがこの日だという人がいる。無論、その見解は他にひっくり返す要素も無いのではあるが、他の箇所に日付は無いし、この文章自体は「今日、ここで初めて参じた」ことを意味すると限定できないように思う。なお、道元禅師が初めて参じた日は、以下の一文で知られている。
大宋宝慶元年乙酉五月一日、道元、はじめて先師天童古仏を妙高台に焼香礼拝す。先師古仏、はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにいはく、仏仏祖祖面授の法門、現成せり。
『正法眼蔵』「面授」巻
「妙高台」というのは、天童山にあった伽藍の1つで、住持の居室である「方丈」とは異なるものの、臨時の説法や学人との相見を行うための場所として設けられていた。
大光明蔵は方丈なり。西屏風のみなみより、香台のほとりにいたりて、焼香礼拝す。入室このところに雁列すべしとおもふに、一僧もみえず、妙高台は下簾せり、ほのかに堂頭大和尚の法音きこゆ。
「諸法実相」巻
このように見える通りである。ところで、そのことから、妙高台はあくまでも相見するための場所であり、それと別途方丈に参じたという解釈は可能であろう。それは、道元禅師御自身、かなり名誉に感じておられたようで、次のような記載もある。
われなにのさいはひありてか、遠方外国の種子なりといへども、掛搭をゆるさるるのみにあらず、ほしきままに堂奥に出入して、尊儀を礼拝し、法道をきく。愚暗なりといへども、むなしかるべからざる結良縁なり。
「梅華」巻
道元禅師は、大いに自らを謙遜されている。日本という、正伝の仏法が未だ及ばない国から来たのに、如浄禅師の法会に参じ、しかも、堂奥(=方丈)にまで上って、自由に仏法を聞くことが出来た喜びを、「結良縁」と称したのである。その道元禅師が方丈に参じて、一応の順番でいえば最初の問答になるのが、「教外別伝」についてであった。
道元、拝問す。
今、諸方に、教外別伝と称し、而も祖師西来の大意となすは、その意如何。
和尚示して云く。仏祖の大道、何ぞ内外に拘わらん。然るに、教外別伝を称するは、唯だ摩騰等が所伝の外に、祖師西来して、親しく震旦に到り、道を伝え業を授けたまいたり。故に教外別伝と云うのみなり。世界に二つの仏法あるべからず。祖師の未だ東土に来りたまわざりしときは、東土には行李のみ有って、而も未だ主有らざりき。祖師既に東土に到りたまいしは、譬えば民の王を得るが如し。当にその時、国土・国宝・国民は、皆な王に属すべきなり。
『宝慶記』
これが、最初に掲げられている問答である。道元禅師は、禅宗に於いて「教外別伝」を称し、それを「祖師西来の大意」として特殊化することについての意義を聞いている。なお、如浄禅師の答えは端的に、「仏道の大道、何ぞ内外に拘わらん」である。所謂「教外別伝」という時の「外」を批判=吟味したのである。この批判は、道元禅師、そのまま受け嗣いで、『正法眼蔵』「仏教」巻に於いて、同じく「教外別伝批判」を行っている。
確かに、坐禅の儀則である『普勧坐禅儀』などを見ると、文字を逐って、それを知っただけで禅を極めたように思い違いすることを批判しているが、しかし、文字を文字だからといって「いのち通わぬ、否定すべきもの」としているわけではない。そういう誤解している者が「教外別伝」を標榜し、文字を否定するのだ。むしろ、我々は知らねばならない。文字とは「仏の文字」であり、経典とは「仏経」を極めねばならないのである。
それは簡単なことでは無いが、しかし、自ら自身の思い込みとして、文字か?仏法か?という二者択一を持っている場合、文字をただ学ぶよりももっと愚暗である可能性を考慮しなくてはならないのである。それは、自ら自身のありように、その本人が気付いていないためである。文字を文字として否定できるなんてことが可能だろうか?一切の事象を皆、仏のいのちとして、尽十方界を真実人体として把握した者に、一切の否定は無用である。それを、如浄禅師は「何ぞ内外に拘わらん」と仰ったのである。
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宝慶元年七月初二日、方丈に参ず。
まぁ、新旧の暦の違いはあるから、実際にはもっと暑い時期のことだったのだろうけど、道元禅師は宝慶元年(1225)7月2日に如浄禅師の室に入り、参じている。ところで、良くこの記述に基づいて、道元禅師が如浄禅師に参じ始めたのがこの日だという人がいる。無論、その見解は他にひっくり返す要素も無いのではあるが、他の箇所に日付は無いし、この文章自体は「今日、ここで初めて参じた」ことを意味すると限定できないように思う。なお、道元禅師が初めて参じた日は、以下の一文で知られている。
大宋宝慶元年乙酉五月一日、道元、はじめて先師天童古仏を妙高台に焼香礼拝す。先師古仏、はじめて道元をみる。そのとき、道元に指授面授するにいはく、仏仏祖祖面授の法門、現成せり。
『正法眼蔵』「面授」巻
「妙高台」というのは、天童山にあった伽藍の1つで、住持の居室である「方丈」とは異なるものの、臨時の説法や学人との相見を行うための場所として設けられていた。
大光明蔵は方丈なり。西屏風のみなみより、香台のほとりにいたりて、焼香礼拝す。入室このところに雁列すべしとおもふに、一僧もみえず、妙高台は下簾せり、ほのかに堂頭大和尚の法音きこゆ。
「諸法実相」巻
このように見える通りである。ところで、そのことから、妙高台はあくまでも相見するための場所であり、それと別途方丈に参じたという解釈は可能であろう。それは、道元禅師御自身、かなり名誉に感じておられたようで、次のような記載もある。
われなにのさいはひありてか、遠方外国の種子なりといへども、掛搭をゆるさるるのみにあらず、ほしきままに堂奥に出入して、尊儀を礼拝し、法道をきく。愚暗なりといへども、むなしかるべからざる結良縁なり。
「梅華」巻
道元禅師は、大いに自らを謙遜されている。日本という、正伝の仏法が未だ及ばない国から来たのに、如浄禅師の法会に参じ、しかも、堂奥(=方丈)にまで上って、自由に仏法を聞くことが出来た喜びを、「結良縁」と称したのである。その道元禅師が方丈に参じて、一応の順番でいえば最初の問答になるのが、「教外別伝」についてであった。
道元、拝問す。
今、諸方に、教外別伝と称し、而も祖師西来の大意となすは、その意如何。
和尚示して云く。仏祖の大道、何ぞ内外に拘わらん。然るに、教外別伝を称するは、唯だ摩騰等が所伝の外に、祖師西来して、親しく震旦に到り、道を伝え業を授けたまいたり。故に教外別伝と云うのみなり。世界に二つの仏法あるべからず。祖師の未だ東土に来りたまわざりしときは、東土には行李のみ有って、而も未だ主有らざりき。祖師既に東土に到りたまいしは、譬えば民の王を得るが如し。当にその時、国土・国宝・国民は、皆な王に属すべきなり。
『宝慶記』
これが、最初に掲げられている問答である。道元禅師は、禅宗に於いて「教外別伝」を称し、それを「祖師西来の大意」として特殊化することについての意義を聞いている。なお、如浄禅師の答えは端的に、「仏道の大道、何ぞ内外に拘わらん」である。所謂「教外別伝」という時の「外」を批判=吟味したのである。この批判は、道元禅師、そのまま受け嗣いで、『正法眼蔵』「仏教」巻に於いて、同じく「教外別伝批判」を行っている。
確かに、坐禅の儀則である『普勧坐禅儀』などを見ると、文字を逐って、それを知っただけで禅を極めたように思い違いすることを批判しているが、しかし、文字を文字だからといって「いのち通わぬ、否定すべきもの」としているわけではない。そういう誤解している者が「教外別伝」を標榜し、文字を否定するのだ。むしろ、我々は知らねばならない。文字とは「仏の文字」であり、経典とは「仏経」を極めねばならないのである。
それは簡単なことでは無いが、しかし、自ら自身の思い込みとして、文字か?仏法か?という二者択一を持っている場合、文字をただ学ぶよりももっと愚暗である可能性を考慮しなくてはならないのである。それは、自ら自身のありように、その本人が気付いていないためである。文字を文字として否定できるなんてことが可能だろうか?一切の事象を皆、仏のいのちとして、尽十方界を真実人体として把握した者に、一切の否定は無用である。それを、如浄禅師は「何ぞ内外に拘わらん」と仰ったのである。
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