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Channel: つらつら日暮らし
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今日は旧暦なら解夏の日です

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今日は盂蘭盆会(お盆)の日だと思っている人、首都圏には多いかもしれませんし、それはそれで正解ですが、しかし、もっと大切なのは、今日7月15日、夏安居の解制日なのです。現在では暦の関係で8月15日になってしまっていますが、元々はこの日でした。詳しいことは、【7月15日 解夏の日】などをご参照いただくと良いでしょう。

それで今日はこの解制の日に、道元禅師がどのような説法をされたかを見ていきたいと思います。

 解夏の上堂。
 護生禁足三月なりと雖も、法歳周円今日来る。
 更に犍槌を挙して露地に鳴らせば、衲僧の布袋一時に開く、と。
    『永平広録』巻6-442上堂

年代的には、建長3年(1251)の7月15日であると推定されています。内容的にはそれほど難しい内容ではありません。要するに、護生禁足三月というのは、雨季に多くなる生き物を歩いて踏み殺さないようにお寺に3ヶ月籠もるという意味であり、それが夏安居(雨安居)ということですが、それがおわると「法歳周円」、要するに僧侶としての年齢を重ねるということです。一安居で、法臘が1歳上がるので、そのことを指摘しています。

また、槌を露地に鳴らすということですが、「露地」は、具体的な場所を指すというより、この槌の音が普遍的に広がる様子を指す言葉だと理解すべきでしょう。要するに、安居終了の合図としての槌が鳴らされたことを意味しているわけです。でも、僧堂だとすると、やっぱり自恣の布薩なんでしょうかね?勉強不足の拙僧には良く分かりませんが・・・

ということで、一応、先人達の註釈書を紐解いてみました・・・でも、大したことは書いていませんでした。「秋初夏末の法儀なり」とか、「解夏の化儀」と書いてあるばかりで、解夏の時に行うべき作法という理解みたいのみみたいです。まぁ、そんな感じで良いのでしょう。

で、「衲僧の布袋一時に開く」は、「安居」というのは、結制の際には「何かを閉じるイメージ」で語られ、逆に解制の際には「何かを開くイメージ」で語られるのです。宝治元年(1247)の解夏の上堂では、「四月十五日に握拳し、七月十五日開拳す」と拳の開閉でもって安居のイメージが語られているのです。四方から雲水が集まってきて行われる安居は、まさに法で閉じるイメージです。これは、安居が雲衲の行によって一定の自己組織化のシステムになることを意味していると出来ましょう。しかし、行が終わる解制で自己組織化の運動は止まり、解散するのです。閉じ、そして開くという繰り返しの中に「安居」があるのです。

夏安居の一橛、これ新にあらず、旧にあらず、来にあらず、去にあらず。その量は、拳頭量なり、その様は、巴鼻様なり。
    『正法眼蔵』「安居」巻

橛とは、扉の境界を指しますが、要するに夏安居の時間空間について述べている箇所になります。それが新旧を脱落し、去来を否定し、拳闘を量とし、鼻をその様子とするのです。仏法を量とし、仏法を様子としていると理解して良いところです。だからこそ、新旧・去来を絶しているのです。しかし、これをただ抽象的に仏法だと理解することは許されていません。実践的には、自己組織化のシステムとしての叢林が、これを指すと理解しなくてはなりません。自己組織化であるが故に、本質的に有るのでもないし、無いのでもない、有る時には有って、無い時には無いわけです。その量も様子もその時々で自由自在、それが叢林です。

しかし、それがここで解けたのです。

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