良く、大乗仏教の「回向」の思想を理解していない人は、「生きている人に向けて説かれた『ブッダの教え』が『経典』である。よって、それを死者に向けて唱えても意味は無い」なんていう。アハハ(笑)我々はいつ、死者に向けて読経したというのだろうか?いや、拙僧も知らなかった。
あぁ、いや、もしかすると拙僧の勉強不足かもしれない。でも、未だに先述したことを(多分)真顔で語る人がいるので、この辺でハッキリさせておきたいが、我々は死者に向けて読経しているのでは無い。
では、何処に向けて読経しているのか?それは、何処でも無い。ただ読経しているだけなのである。それから、こういう風にいう人もいる。「現在の日本の読経は、漢文を元にしていて分かり難い。よって、内容が理解出来ないから、聞いていても意味は無い」とかね。だが、実際のところ、日本以外の仏教国でも現地の日常語と経典読誦の際の言語が乖離していることは珍しくない(一例:中国では「陀羅尼」も唱える。陀羅尼はインドの言葉の音写なので、そのままでは中国人には理解出来ない)。よって、日本だけの問題では無い。
それでは何故、意味も分からないのに唱えているだけで良しとしているのか?
結局この問題を共有できねば、先ほどのような頭の悪い議論を重ねることになってしまう。そして、そういう議論をしている者達は、「こういう問題に取り組まない日本の僧侶は無能だ」とでも考えるのだろう。これでは、「謗三宝罪」である。
なお、我々が読経だけで良いとしている理由は、そもそも「内容を理解するために読経しているのでは無い」からである。そして、「読経して功徳を得る」ことが主眼になっているためである。原始仏典にそういう記述があるかはしらないが、少なくとも大乗仏教には、読経しただけで功徳が得られると説いている。日本を始め東アジアで最も流行し、権威を持つ大乗経典は鳩摩羅什三蔵訳『妙法蓮華経』であるが、それにはこのように書いてある。
得大勢、当に知るべし、是の法華経は大に諸の菩薩摩訶薩を饒益して、能く阿耨多羅三藐三菩提に至らしむ。是の故に諸の菩薩摩訶薩、如来の滅後に於て、常に是の経を受持し読誦し解説し書写すべし。
『妙法蓮華経』「常不軽菩薩品」
これは一例である。だが、この一例に既に顕著である。要するに『法華経』は、諸々の菩薩たちにとって利益となって、阿耨菩提(悟り)に至らせるのである。だからこそ、菩薩は如来が滅後した後でも、この経(=法華経)を受持し、読誦し、解説し、書写すべきであると説いている。なお、古来よりこの「受持」「読誦」「解説」「書写」は、どれか1つでも良いとされている。いわば、経典が保存されて、それが他のために説かれる状況が保持されれば何でも良いのである。
そして、ここにもある通り、『法華経』が持つ功徳によって、我々は悟りに趣く。これがいわゆる「自利の修行」ということに鳴るのだが、菩薩はここに留まらない。いわゆる『大般涅槃経』に説かれる「自未得度先度他」の教えに依り、我々は自分が悟りに至る程の「功徳」を得ても、それを「他のために回らす」のである。この「他のために回らす」ことこそ、「回向」である。そして、我々はこの「回向」によって、「死者をも供養」するのである。
何故「死者をも供養」出来るのかといえば、ここにもまた大乗仏教の教えが関わっているが、我々がこの人間界に於いて生死した後、輪廻した際に必ず「六道」に趣くが、この「六道」は全て「三界の内」にあるとされる。では、「三界」について、大乗仏典ではどう説いているのだろうか?
今此の三界は 皆是れ我が有なり
其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり
『妙法蓮華経』「譬喩品」
世尊はこの三界はみな我が所有であるとし、その内に生きる衆生はまた、自らの子であるという。或いはこのようにも説かれる。
三界の有る所、唯だ是れ一心のみなり。
『大方広仏華厳経(八十華厳)』「十地品」
我々が悟るところの「一心」に、この三界が存在している以上、この一心を良く現ずる法師によって、我々は三界の内に生きる六道の衆生の全てを救済できることになる。そして、その中に、「死者」が含まれるということになる。我々は経典を読誦し、得た「功徳」を、「回向」によって「死者」に回らすのである。結果的に、日本で盛んな死者供養を可能としているといえる。そして、我々は大乗仏教こそが、「仏陀の真の教え」であると確信している。これは、研究などによって明らかにされた事実の事実性を超えて、確信に基づく事実性を我々にもたらし、確信の事実に基づく世界観の構築を可能とする。我々がこのような「信仰に基づく言明」を行う自由は、いうまでもなく日本国憲法が保障する「信教の自由」によって保証される。拙僧を批判する事は、誰にも出来ない。もし批判する者がいたとしても、それは拙僧には届かない。その前に、日本国憲法に対する重大な反逆者となることであろう(実際にはこんなきついことは言いたくないが、ここまで言わねば我々への言われ無き中傷は止まるまい)。
ところで、我々曹洞宗で用いる「回向文」の1つには、このようにある。
上来、摩訶般若波羅蜜多心経を諷誦する功徳は、大恩教主本師釈迦牟尼仏――現座道場本尊云々――、高祖承陽大師・太祖常済大師に供養し奉り、無上仏果菩提を荘厳す。伏して願わくは、四恩総て報じ、三有斉しく資け、法界の有情と、同じく種智を円かにせんことを。
「本尊上供」回向
各寺院に於ける本尊に対する回向である。我々は『般若心経』を唱え、それでもって本尊(一仏両祖)を供養している。これは、我々が読経によって得た功徳を「回向」している。だが合わせて、その供養した本尊に、更に多くの存在へ回らしてくれるように願う。ここも「回向」である。複数の回向が重なっている。これが、我々が行う供養の実態である。回向文本文に、「三有斉しく資け」であるとか「法界の有情」という言葉が出ているが、ここに「死者」が含まれる。我々の回向には死者供養が入っている。だが、それは「生者か?死者か?」では無い。現在の我々も入っているのだから、生死の両方に回らしていることになる。よって、拙僧は「仏教は生きている者のためにある」という言葉について、何とも偏狭だと思うのだ。あぁ勿論、この人間界にとっての死者が、他界に於ける生者だと捉えて発言するなら許そう。
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あぁ、いや、もしかすると拙僧の勉強不足かもしれない。でも、未だに先述したことを(多分)真顔で語る人がいるので、この辺でハッキリさせておきたいが、我々は死者に向けて読経しているのでは無い。
では、何処に向けて読経しているのか?それは、何処でも無い。ただ読経しているだけなのである。それから、こういう風にいう人もいる。「現在の日本の読経は、漢文を元にしていて分かり難い。よって、内容が理解出来ないから、聞いていても意味は無い」とかね。だが、実際のところ、日本以外の仏教国でも現地の日常語と経典読誦の際の言語が乖離していることは珍しくない(一例:中国では「陀羅尼」も唱える。陀羅尼はインドの言葉の音写なので、そのままでは中国人には理解出来ない)。よって、日本だけの問題では無い。
それでは何故、意味も分からないのに唱えているだけで良しとしているのか?
結局この問題を共有できねば、先ほどのような頭の悪い議論を重ねることになってしまう。そして、そういう議論をしている者達は、「こういう問題に取り組まない日本の僧侶は無能だ」とでも考えるのだろう。これでは、「謗三宝罪」である。
なお、我々が読経だけで良いとしている理由は、そもそも「内容を理解するために読経しているのでは無い」からである。そして、「読経して功徳を得る」ことが主眼になっているためである。原始仏典にそういう記述があるかはしらないが、少なくとも大乗仏教には、読経しただけで功徳が得られると説いている。日本を始め東アジアで最も流行し、権威を持つ大乗経典は鳩摩羅什三蔵訳『妙法蓮華経』であるが、それにはこのように書いてある。
得大勢、当に知るべし、是の法華経は大に諸の菩薩摩訶薩を饒益して、能く阿耨多羅三藐三菩提に至らしむ。是の故に諸の菩薩摩訶薩、如来の滅後に於て、常に是の経を受持し読誦し解説し書写すべし。
『妙法蓮華経』「常不軽菩薩品」
これは一例である。だが、この一例に既に顕著である。要するに『法華経』は、諸々の菩薩たちにとって利益となって、阿耨菩提(悟り)に至らせるのである。だからこそ、菩薩は如来が滅後した後でも、この経(=法華経)を受持し、読誦し、解説し、書写すべきであると説いている。なお、古来よりこの「受持」「読誦」「解説」「書写」は、どれか1つでも良いとされている。いわば、経典が保存されて、それが他のために説かれる状況が保持されれば何でも良いのである。
そして、ここにもある通り、『法華経』が持つ功徳によって、我々は悟りに趣く。これがいわゆる「自利の修行」ということに鳴るのだが、菩薩はここに留まらない。いわゆる『大般涅槃経』に説かれる「自未得度先度他」の教えに依り、我々は自分が悟りに至る程の「功徳」を得ても、それを「他のために回らす」のである。この「他のために回らす」ことこそ、「回向」である。そして、我々はこの「回向」によって、「死者をも供養」するのである。
何故「死者をも供養」出来るのかといえば、ここにもまた大乗仏教の教えが関わっているが、我々がこの人間界に於いて生死した後、輪廻した際に必ず「六道」に趣くが、この「六道」は全て「三界の内」にあるとされる。では、「三界」について、大乗仏典ではどう説いているのだろうか?
今此の三界は 皆是れ我が有なり
其の中の衆生は 悉く是れ吾が子なり
『妙法蓮華経』「譬喩品」
世尊はこの三界はみな我が所有であるとし、その内に生きる衆生はまた、自らの子であるという。或いはこのようにも説かれる。
三界の有る所、唯だ是れ一心のみなり。
『大方広仏華厳経(八十華厳)』「十地品」
我々が悟るところの「一心」に、この三界が存在している以上、この一心を良く現ずる法師によって、我々は三界の内に生きる六道の衆生の全てを救済できることになる。そして、その中に、「死者」が含まれるということになる。我々は経典を読誦し、得た「功徳」を、「回向」によって「死者」に回らすのである。結果的に、日本で盛んな死者供養を可能としているといえる。そして、我々は大乗仏教こそが、「仏陀の真の教え」であると確信している。これは、研究などによって明らかにされた事実の事実性を超えて、確信に基づく事実性を我々にもたらし、確信の事実に基づく世界観の構築を可能とする。我々がこのような「信仰に基づく言明」を行う自由は、いうまでもなく日本国憲法が保障する「信教の自由」によって保証される。拙僧を批判する事は、誰にも出来ない。もし批判する者がいたとしても、それは拙僧には届かない。その前に、日本国憲法に対する重大な反逆者となることであろう(実際にはこんなきついことは言いたくないが、ここまで言わねば我々への言われ無き中傷は止まるまい)。
ところで、我々曹洞宗で用いる「回向文」の1つには、このようにある。
上来、摩訶般若波羅蜜多心経を諷誦する功徳は、大恩教主本師釈迦牟尼仏――現座道場本尊云々――、高祖承陽大師・太祖常済大師に供養し奉り、無上仏果菩提を荘厳す。伏して願わくは、四恩総て報じ、三有斉しく資け、法界の有情と、同じく種智を円かにせんことを。
「本尊上供」回向
各寺院に於ける本尊に対する回向である。我々は『般若心経』を唱え、それでもって本尊(一仏両祖)を供養している。これは、我々が読経によって得た功徳を「回向」している。だが合わせて、その供養した本尊に、更に多くの存在へ回らしてくれるように願う。ここも「回向」である。複数の回向が重なっている。これが、我々が行う供養の実態である。回向文本文に、「三有斉しく資け」であるとか「法界の有情」という言葉が出ているが、ここに「死者」が含まれる。我々の回向には死者供養が入っている。だが、それは「生者か?死者か?」では無い。現在の我々も入っているのだから、生死の両方に回らしていることになる。よって、拙僧は「仏教は生きている者のためにある」という言葉について、何とも偏狭だと思うのだ。あぁ勿論、この人間界にとっての死者が、他界に於ける生者だと捉えて発言するなら許そう。
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